ARIA THE NOVEL.

3センチ


 暁はこの日、灯里に呼び出されて、サン・マルコ広場に来ていた。
 寒い中、何故こんな屋外にいなければいけないのか。
 そんな事を考える暁とは対称的に、灯里は嬉しそうだ。

「はい、暁さん」
 そう言って差し出されたのは、正方形の平たい箱。
 ピンクの包装紙と茶色のリボンに包まれて、そこに特別が含まれているように感じられる。
「何だ? コレは」
 受け取って、引っくり返したり翳したりしながら訊ねてみる。
 そんな様子の暁に、灯里は小さく笑って人差し指を立てた。
「チョコレートですよ」
「チョコレート?」
 聞き返すと、灯里は頷いて「今日が何の日か、分かります?」と首を傾げた。
「……いや」
 暫く考えてもそれらしい答えは生れず、暁は首を振った。
 すると灯里は不思議そうに、「アクアにはないのかなぁ」と呟く。
 事情を知らない暁は、何となく面白くなくて、考え込む灯里のもみ上げを掴み上げた。
「おい、今日が何なんだ」
「本当に、分からないんですか?」
 髪を引っ張られて、少しムッとした顔になったが、それよりもこちらが気になるらしい。
 灯里は更に訊ねてくる。
「知らねーよ、良いから教えやがれ」
 馬鹿にされている気がして、暁は仕返しに灯里の髪を軽く引っ張る。
 彼女は頬を膨らませて、「髪引っ張るの禁止ですー!」と恨めしそうに頬を膨らませた。
 そして、諦めたように溜息を吐く。
「分かりました、お教えします」
 灯里は髪を掴まれたままの状態で近くのベンチに腰掛け、暁もその隣に座った。
 ツルツルに磨かれた石が冷たい。
 思わず身体を震わせる暁を余所に、灯里はピンと人差し指を立てて話し始めた。

「今日は、バレンタインデーなんですよ」
「何だその、バレン、何とかって言うのは」
 口を挟むと、灯里は即座に「バレンタインです!」と訂正する。
「バレンタインというのは、昔から地球に伝わる行事で、毎年二月十四日、女性が男性にチョコレートを贈るんですよ。
 三月には、バレンタインデーと対のホワイトデーがあるんです。
 こっちは男性が女性に、お返しをする日なんですよ。
 国によっては、その反対だったりするそうですけど」
「ほぅ」
 今日はそんな日だったのか。
 感心して相槌を打った後、はたと気が付いた。
「ということは、お前は俺にお返しを求める気だな?」
「ち、違いますっ! これは、私が暁さんにあげたくて勝手に……」
 必死に否定する様が可愛く見えてしまったのは、きっと気のせいだ。
 暁はそう言い聞かせるように、激しく頭を振る。

 しかし気付けば、暁の意志とは反対に、両手は灯里の頬を挟んで顔を上向かせていた。
 そして、
「何が欲しい?」
「はひ?」
 目を丸くして見上げる灯里に、心臓が高鳴る音を感じた。
「あんまり高い物は駄目だぞ」
 まさか、自分の口からこんな言葉が出るとは思わなかった。
 暁自身、十分驚いているが、それ以上に驚いているのが灯里だ。
 彼女は暁を見上げたまま、固まってしまっている。
「おい、もみ子」
「あ……わ、私、もみ子じゃありません」
 力無く俯く灯里の耳が赤い。
 つられて、暁も体温が上がっていくのを自覚した。
「俺が勝手に決めても良いんだな?」
「…………」
 灯里は無言のまま、コクリと頷く。
 暁は顔を覗こうとしたがそっぽを向かれ、灯里は彼に背を向ける形になった。
「……俺様に背中を向けるとは、いい度胸だな」
 どうにか振り向かせようと、耳元に囁いてみる。
 すると、灯里はピクリと肩を震わせ、顔だけを暁に向けた。

 不意に、視線がぶつかった。
 しかも間近で。
 途端に灯里は目を丸くして、それでも視線は暁に繋げたまま動かなくなった。
 これは想定外だ。
 仕掛けた暁も、思わず動けなくなる。

 今は冬。
 ここは観光地。
 けれども、あまりに寒すぎるせいで誰もいない。
 と、いうことは。
「……二人きりだな」
「あ、かつき、さん……?」
 出てしまった心の呟きに、暁は思わず苦笑した。
 灯里は相変わらずの赤面で、彼を見詰めている。

 もう、限界かもしれない。
 耐えかねて、片手で細い肩を掴むと、もう片方で顎を捕まえた。
 そして……



「まぁ!」



 物陰から、幼い声が聞こえた。
「まぁ君、でっかいダメです!」
「あんたも声でかいからっ!」
 直後、更に聞き覚えのある声が、暁と灯里を現実に引き戻す。
「……お前ら」
「あ、見付かっちゃった。行くわよ後輩ちゃん!」
「はい、藍華先輩!」
「おいコラ、待ちやがれ!」
 とっ捕まえてどうにかしてやろうかと思ったが、それより早く、彼女達はどこかへ走り去ってしまった。

 再び二人きりの時が訪れたが、とても気まずい雰囲気が辺りに漂う。
「…………」
「…………」
 嫌な沈黙が二人を包む。
 さっきまでの甘いムードが嘘のようだ。
「あのっ」
 何か話さなければ。
 そう思ってあれこれ考えていると、灯里が先に口を開いた。
「実は、さっきの話しには続きがあるんです」
 いかにも取って付けたような話題だ。
 彼女なりに、沈黙を破る方法を考えていたのだろう。
「何だ?」
 暁は灯里の思い付きをありがたく思いながら訊ねる。
 一瞬目が合うと、灯里は顔を真っ赤にして、目線を足元に落とした。
「じ、実は、私が住んでいた日本では、バレンタインデーに女性が男性に、愛を告白する代わりにチョコレートを贈ることがあるんです」
「……え?」
 今、何と言った?

「そ、それじゃあ私はこれでっ……」
 言うだけ言うと、灯里は顔を伏せたまま立ち上がった。
「待て」
 行かせるものか。
 ほとんど無意識に手を掴むと、灯里はあっけなくバランスを崩し、背中から倒れ込んできた。
 そこを待ち構えていた腕が、彼女を捕まえる。
「あ、あ、あ、暁さん?」
「言い逃げしようとしても、そうはいかんぞ」
 自分の腕に納まった灯里を後ろから覗き込めば、彼女は困惑の表情を浮かべている。
「さっきの話し振りからして、お前は俺のことが好きなんだろう?」
 口の端を上げて、わざと意地悪っぽく笑ってみる。
 すると、灯里はますます赤面して、暁から目を逸らそうとした。
 しかし、暁はそれより早く、彼女の首に手を添えて顔を上向かせる。
「だがしかし、俺はさっき、お前にお返しをすると言ったばかりだ。だから……」
 そこで一旦言葉を切って、灯里の耳元に口を寄せた。
「さっきの続きは、来月まで持ち越しだな」
 囁くように言ってやれば、灯里は耳まで真っ赤になった。
 湯気が出るのではないかと思うほど赤い灯里に、暁は勝ち誇った笑みを贈る。
「は、はひ……?」
「じゃあな」
 最後に灯里の頭を軽く叩き、その場を立ち去った。


「……あと三センチ」
 あの時、邪魔が入らなければ……。
 でも、これでよかったのかも知れない。
 残念なような、安心したような複雑な感じだ。
「俺も、まだまだだな」
 暁はひとりごちて、足早にロープウェイに乗り込んだ。

「来月、か」
 窓から見えたネオ・ヴェネツィアが、いつもと違うように見える。
 さっき感じた微かな鼓動。
 あれは本当に、気のせいだろうか。



‥END‥

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