猫の恩返し

紅茶は猫印

 猫の事務所は、あくまでも『猫』の事務所。
 全てが猫サイズのこの場所は、人間の私にとって少しばかり窮屈である。

 建物の外観から内装、家具や小物類まで英国調でまとまめられた、ドールハウスのような隠れ家を、私は心底気に入っている。
 しかし……

「ごめんなさい……」
「気にしないで。どうせ新しい物に替えようと思っていたのだから」
 うなだれる私に、事務所の主であるバロンは優しく言った。
 二人の間には壊れたシャンデリア。
 この建物にぴったりな、素敵なシャンデリアだったのに。
 修復不可能になった無惨な姿を見ると、自分を責める気持ちが次から次へと沸き上がってくる。
「何だ何だ、ハルはまた何かを壊したのか?」
 ムタさんはトトさんとの喧嘩を終わらせて、事務所に入って来ると、一瞬にして状況を理解たようだ。
 驚きを通り越して、呆れた顔でシャンデリアの残骸を見詰めている。
 そう、ムタさんの言う通り、『また』なのだ。

 一ヶ月前にテーブルの脚を折り、二週間前に窓ガラスを割った。
 一週間前にはドアの蝶番を変な方向へ折り曲げてしまい、三日前には絨毯に紅茶を零してしまった。
 今回のシャンデリアは、不注意で頭をぶつけてしまった。
 これで物を壊すのは五回目。いい加減、自分で自分が嫌になってきた。

「本当にごめんなさい」
 何度謝っても足りないくらいだ。
「サイズが合わないのだから、仕方がないよ」
「……うん」
 バロンの言うように、全てが猫サイズであるこの事務所では、私は少しばかり大きすぎる。
 油断すると、身体をあちこちにぶつけて、物を壊してしまうのだ。
 バロンはいつも笑って許してくれるが、彼の物を傷つけるのが嫌なのは変わらない。

 そしていつもこう思う。
 小さくなれたら良いのに、と。
 いつか猫の国に連れていかれた時のように、身体を小さくできれば、頻繁に物を壊すこともなくなるはず。
 しかし、ここは猫の国ではない。
 身体を縮ませるなど、不可能に等しいだろう。

「紅茶でも飲んで落ち着くと良い」
「ありがとう」
 ため息をつく私を気遣ってか、バロンは温かい紅茶を差し出した。
 ありがたくカップを受け取り、口元に近づけると甘い香りが鼻を抜ける。
 彼が淹れる紅茶はいつも香りが少しずつ違うが、これは全く嗅いだことのない香りだ。
「新しい葉っぱ?」
「よく判ったね。先日、猫の国の王子から頂いたんだ。是非ハルに飲んで欲しいと仰っていたよ」
「へぇ」
 相槌もそこそこに、カップに口を付けた。
 一口啜ると、中身はあっという間に無くなってしまった。

「……おいしい」
「うん、爽やかな甘みだね」
 バロンも気に入ったようで、可愛い猫のマークが描かれた紅茶の缶を眺めながら嬉しそうに頷いた。
「おや?」
「ん?」
 缶の側面に書かれた文字に気付いた瞬間、バロンの表情が固まった。
 何だろうと首を傾げる。と、私の隣でムタさんが突然大声をあげた。

「ハ、ハル、オマエ……」
「え?」
 あれ、ムタさん大きくなったね。
 そう言おうとして、既知感を覚えた。
 辺りを見回してみると、バロンや壊れたシャンデリアまでもが大きくなっている。
 この展開、もしかして……
「私、小さくなっちゃった?」
 耳とか生えてないよね?
 咄嗟に頭を触ったが、毛に覆われた三角耳や肉球は存在せず、ひとまずホッと胸を撫で下ろした。

「ハル、悪いがちょっと外へ出てみてくれないか」
「え? あ、うん」
 バロンに言われるがまま、大きなドア開けて事務所の外へ出る。
 すると、途端に視点が高くなり、あっという間にバロン達が小さくなった。身体の大きさが戻ったのだ。
 次にバロンは、私に事務所の中に入るよう促した。
 いつものように、地面に膝を着いて頭の先をドアに潜らせようとした瞬間、今度は身体が縮んで、四つん這いからバロンを見上げる形になった。
 これは一体……
「どういうこと?」
 困惑して、四つん這いのまま動かない私を立たせて、バロンは手にした紅茶の缶を見せた。
「これを飲むと、ある特定の場所でのみ、身体の大きさが変わるらしい」
「ふうん」
 缶の文字は全て猫語で書かれていて、何と書かれているのかはさっぱり解らなかった。
「効果は……丸一日といったところか」
 缶の説明を読みながら、バロンは幾度か頷くと、突然私の方へ顔を向けた。

「な、なに?」
 それまで彼の横顔を見詰めていた私は、突然目が合ってぎょっとしてしまった。
 しかし彼はそんなことには構いもせず、小さくなった私を見てにこりと笑った。
「これはハル専用にすべきだね」
「え?」
 そして、彼はポカンとしている私の手を取ると更に笑みを深くした。
「これでいつでも、この手に触れることができる」
 手の甲に口付けられ、心臓が大きく跳ね上がったのがわかった。

「キザな奴」
 ムタさんの声が部屋に響いた。
 そこで更に、私の顔が沸騰したのは言うまでもない。


おわり
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