ポケットモンスター
路地にて ××
「まあったく、サトシって本当にお子ちゃまなんだから!」
それはいつもと同じ台詞。
しかし、いつもならすかさず言い返すはずのサトシは、文句も言わず、ただ苦笑を浮かべているだけ。
「……どこか、具合でも悪いの?」
心配そうに覗き込んで来るカスミに、サトシは思わず顔を引き攣らせた。
会わない内に成長したとは思わないのか。
おそらく本気で心配しているのだろう、この表情は。
無意識に、そして早急に挑戦状を書き上げ目の前に突き付けられて、サトシはしめたと思った。
この状況を、利用しない手はないだろう。
いつの間に生まれたのか、腹黒い自分が呟く。
そして驚いた事に、この声に頷いている自分がいる事に気付き、サトシは心の中で苦笑した。
「サト……?」
「別にどこも悪くないよ」
「……なぁんか怪しい」
微笑みを保ちながら、さり気なくカスミに一歩近付く。
彼女は特に気にする様子もなく、怪訝そうな目でじっとサトシを見詰めている。
「何か企んでるでしょう?」
腕組みをして、眉を吊り上げて、真意を探ろうとサトシの目を覗き込む。
(……この言動が自分の首を絞めてるなんて、思いもしないんだろうな)
そう思った瞬間、サトシは口の端が上がるのを感じた。
カスミから見れば、いきなりニヤリと笑ったので、さぞかし気味が悪いだろう。
「な、何なのよ……」
「カスミは解ってないなぁ」
「……へ? きゃっ!」
ボケッとしているカスミの手を引いてみると、思いのほか軽い力でその身体を動かせたので、サトシは少し驚いた。
数年前には太さがあまり変わらなかった白い腕も、今ではそっと扱わなければ折れてしまいそうなほど、細く感じる。
ついでにサトシ自身の変化にも少しだけ驚いたが、今は気にしない。
掴んだ手をそのままに、彼は人気のない路地へカスミを連れ込んだ。
大通りから一歩入っただけなのに、街の喧騒は一気に遠ざかる。
時折、車のクラクションやら子供の笑う声が聞こえてくるが、それにしても静かなものだ。
「あ、あの……サトシ?」
「ん?」
路地に連れ込んだ勢いのままに、手近な壁に押し付けられたカスミが、か細い声を上げる。
サトシが頭一つ分低い位置にある顔を覗けば、彼女は自分の左右を気にしながら、靴のかかとを背後の壁にぶつけた。
「こ、これは……どういう…………」
「よく聞こえないなあ」
……というのは、本当は嘘。
大人しい時のゴニョニョのような、とても小さな声だったが、実はちゃんと全部耳に届いていた。
それでも聞き返したのは……、
「ムッ! だーかーらっ、これは何のマネよってきーてんの!」
(ほら、来た)
カスミに気付かれないように、サトシは小さくガッツポーズを作った。
彼女が言っているのは、今のこの体勢の事。
壁に背中をつけているカスミの顔の両脇に、サトシが手を着いて、その中に彼女を閉じ込めている。
はっきり言って、結構やばめな体勢だと、この状況を作ったサトシ自身も思っていた。
しかし、今更止めるつもりもなかった。
というより、今の自分に有利な状況を、自ら止めてしまうのは大変勿体無い。
サトシは自分を睨んでいるカスミを見下ろし、口の端を上げた。
猛攻開始だ。
「カスミが、いつもいつも『お子ちゃま』って言うからさぁ。もう『お子ちゃま』じゃないってコト、どーやったら解ってもらえるかなぁとおもってさぁ」
「……え?」
瞬間、カスミの顔から血の気が引いたように見えた。
「言っても解ってもらえないなら、行動で示すしかないだろ?」
サトシが一言話す度に、ただでさえ白いカスミの肌が、ますます白くなる。
突っ張っていた肘を折って、身体ごとカスミに近付いてみると、彼女は逃げ場を求めて後ずさろうとしたが、壁に阻まれて上手くいかない。
「お前と離れている間に、結構成長したんだよね、オレ」
身長は伸びてカスミを追い越したし、声も少し低くなった。
そしてなによりも、恋をして、心も少しは成長したはずだ。
「あ、あの、サト……」
「カスミもそろそろ、オレを『お子ちゃま』だなんて言えなくなるぜ?」
オロオロと動揺するカスミの耳元に、わざと声のトーンを落として囁きかける。
その瞬間、ずっと無駄にもがいていたカスミの動きがピタッと止まる。
顔を見てみると、白かった肌が赤に変わっている。それも耳まで。
目には涙をいっぱいに溜めて、口は真一文字に結んで……。
「変な顔」
「ッ……」
手はいつの間にか胸の前で握り締められていて、小さく震えている。
(……ちょっと、やりすぎたかな?)
そう思って、きつく組まれて赤くなったカスミの手に、自分の手を重ねてみる。
すると彼女はビクリと身体を震わせて、オクタンのような顔を上げてサトシを睨んだ。
「あんた、いつの間に、こんな事覚えたのよッ!」
途切れ途切れに、泣いているような声でサトシに訴えかけるカスミに、彼は眉をひそめて微笑みかける。
「さあ、いつだっけ?」
言うが早いか、サトシは身を屈めてカスミと目の高さを合わせる。
二つの視線がぶつかると、カスミは少々戸惑いの色を見せながらも、ゆっくりと目を閉じて唇を上向けた。
そこからは本当に自然の流れ。
サトシは、カスミの手に重ねた自分の手に僅かに力を通わせて、もう片方の手は涙の通った跡がある頬に、そっと触れさせる。
後は、もう数センチ先まで近付いた、淡い色の唇に、自分の唇を重ねるだけ。
そう思って目を閉じた、まさにその時。
「ピカピーッ!」
ピカチュウのサトシを呼ぶ声と、
「おーっほっほっほ! ジャリボーイがいない隙に、ピカチュウゲットよぉー!」
聞きなれた女の高笑いが、サトシ達二人の耳に届いた。
「ロケット団!」
サトシとカスミはパッと目を開き、声のする方に顔を向けた。
建物に阻まれて姿は見えないが、人々のざわめく声が聞こえてくるから、そこにいるのは確かだろう。
「早く、ピカチュウを助けに行かなきゃ!」
「クソッ!」
(あと少しだったのにぃっ!)
路地から飛び出して走る間、サトシは心の中で嘆いていた。
「この恨み、はらさでおくべきか……」
この後、事情を知らないロケット団が、いつもより手酷くやられて、更にいつもより遠くまで飛ばされたのは…………まあ、当然の事だろう。
‥END‥