アニポケ

可愛的人


「なあ、カスミ」
 午後三時四十分のポケモンセンター。
 そろそろ三時のお茶会を終えようかという頃、サトシがカスミの顔を覗き込んだ。
「なあに?」
 どこか、顔色を窺うような、それでいて甘えたがっているようにも見える眼差しを受け、彼女は小首を傾げた。
 口の端に僅かに力を込め、微笑を絶やさないように注意をする。
 カスミの機嫌が良いと判断したのか、サトシは表情に明るさをプラスして、ずずいと身を乗り出して、鼻先二十センチほど先まで近付けてくる。
 何だ何だと内心訝しむ彼女の心情を知ってか知らずか、サトシはニカッと歯を見せて笑った。
「俺の事、好き?」

「……は?」
 あまりに唐突で今更な質問。返す言葉が見付からない。
 閉口しているカスミに、サトシは「なあなあ」と返答を迫る。
「カスミは俺の事、好き? 嫌い?」
「な、何なのよ、今更……」
「良いだろ、たまには。それこそ今更なんだし」
 どこか悪戯っぽい笑み。彼女は顔が近い事を思い出し、途端に照れ臭くなって顔を逸らす。
「い、言わない」
「何だよソレ」
 カスミの態度にムッとしたのか、サトシの声色が不機嫌そうに変化したが、彼女は主張を曲げなかった。
 彼女がそっぽを向いても、サトシは強請る事を止めようとしない。
 いずれ諦めてくれるだろうとも思ったが、それを待てるほど、カスミの精神は大人ではなかったようだ。

「なーってば」
「もおっ、五月蝿いわね!」
 これまで押さえ込んでいた分、蓄積した苛々に少しの照れが引火して爆発する。突然の大声に驚いて、サトシはちょっとたじろいだ。
「な、何怒ってるんだよ」
「怒ってない」
「怒ってるだろ!」
「怒ってない! 大体、何でそんな事を訊く必要があるのよ! 私の態度で判らないの?」
 強気な性格が災いして、自然と口調がきつくなる。
 そんな彼女に触発されるように、サトシの表情にも不満と憤りが湧き上がって来たのが判ったが、これも今更だ。止められる訳がない。

「ちゃんと言ってくれなきゃ判らないよ!」
 ああもう、この鈍感キングが……!
 普段は呆れたり微笑ましかったりするだけだが、今回ばかりは彼の特性が腹立たしい。
「サトシの馬鹿、もう知らない! 自分で考えれば!」
 最低の捨て台詞。
 席を立って振り返る間際、傷付いたようなサトシの顔が視界の端に映ったが、気付かないフリをしてその場から走り去った。

 息が切れて倒れるようにしゃがみ込んだ木の根元。闇雲に走り回ったから、自分が今どこにいるのかも解らない。
「あんな顔するなんて、ズルイよ……」
 痛いのは彼女だって同じなのに。
 最後に見たサトシの表情が脳裏に張り付いて剥がれず、カスミの瞳から雫が溢れて、膝に冷たくむず痒い感触を残した。



 ポッポ時計の針は、間もなく五時を指そうとしている。
 外はもうじき暗くなる頃だというのに、彼の旅の仲間は未だ帰って来ない。
「遅い、な」
 独りごちて、サトシは喧嘩後十回目の溜息を吐いた。
 あの時計が四時を知らせる少し前、彼は旅のパートナーと喧嘩をした。
 パートナーと言っても相手はポケモンではなく、人間だ。それも――これにはサトシの私情も含まれるが――飛び切り可愛い女の子。
 オレンジ色の髪とエメラルドの瞳が魅力的な、カスミという名の少女とサトシは、世間から見れば『恋人同士』と認識されている。その関係は決して嘘でも噂でもなく、彼自身もそのように認識していた。

 サトシは、いつものじゃれ合いの延長のつもりで、あのような質問をしたのだが、相手にその意図は伝わらなかったらしい。
 どうしてか解らないが、怒って部屋を飛び出して行ってしまった。
 ここがロビーでなくて良かったと、心底思う。いくら何でも、公衆の面前で喧嘩するような年齢ではない。
 彼は思考の半分で安心して、残りの半分で心配した。
 あの後、カスミはどうしただろうか。ただ怒っているだけなら良い。だが、もしも泣いていたら……?
 彼女は本当に可愛いから、泣いている彼女に声をかける不届きな輩がいるかもしれない。
 勝気な性格のカスミだが、やはり女の子だ。力では男に敵う訳がない。ポケモンを連れていれば良いのだが……
 ぐるりと部屋の中を見回す。二つ並んだベッド、ドレッサー、子供用かと見紛うほど小さなテーブルと、それに反してゆったりとした造りの背凭れ付きの椅子、それから……

 ベッドの上に無造作に放り投げられているのは、紐を引っ張って口を閉めるタイプのリュックだ。生地は赤の無地で、ワンポイントでラブカスの刺繍が施してある。
 サトシのリュックはこんなに可愛くないし、第一今は彼の足元にある。という事は、あのリュックは――言わずもがな。
「……カスミの、リュック」
 誰にともなく、ぼそりと呟いた。
 その声に反応して、窓際に立って外を眺めていたピカチュウの耳がピクッと動いて、サトシの方に振り向いた。
「ピカピ、ピカチュピ、ピカカピカ?」
「迎えに行かないのかって?」
「ピカ」
 困ったように聞き返したサトシに、ピカチュウはこくりと一つ頷く。

 サトシはもう一度窓の外に目をやった。
 空の端はもうオレンジに染まっている。きっとすぐに、紫に変わってしまうに違いない。
 窓に映った自分の顔を見詰め、彼は右手をきつく握った。グローブをしていない掌に、伸びかけた爪が突き刺さる。
 ――何て顔をしているのだ。
「……ピカチュウ」
 呼ばれて顔を上げた相棒に、サトシは先程カスミにしたのと同じように、ニカッと笑いかけた。
「帽子を取って来てくれないか?」
 カスミを迎えに行こう。言葉には表さなかったが、ピカチュウにはちゃんと通じたようだ。
「ピカ!」と元気に返事をして、ベッドの枕元に置いていたサトシのキャップを両手に抱え、彼の元へ駆けて来た。

「ありがとう。……行こうか」
 帽子で頑固な癖毛を押し潰し、きりっと眉を上げる。ピカチュウも一緒に強気な表情を作り、無言で頷く。
 ふたりはポケモンセンターから一歩外に出ると、目にも止まらぬ速さで駆け出した。



 どれくらい時間が経っただろう。白かった太陽は色付き、空に浮かぶ雲の影を濃くして立体感を持たせている。
 さっきまでは泣くのに忙しくて周りを見る余裕などなかったが、改めて見回してみると、どうやらここは、町の外れに位置する河原のようだった。
 普段から水辺を好む傾向があったカスミだが、無意識にこの場所に足を運ぶとは。流石、水ポケモンの使い手である。
 川岸から身を乗り出して覗き込み、彼女は自嘲気味に笑った。
 水面に映る顔の酷い事。傾いた日のために細部までよく見えないが、両目は泣き腫らし、涙で濡らした頬もかぶれて赤くなっている。
 触ってみると、指先に微かな違和感と、ヒリリとした痛みが走る。随分長い事泣いていたようだ。
「そろそろ帰らなきゃ」
 喧嘩の勢いのまま外で夜を明かすつもりは流石にない。少々気まずいが、帰らなければサトシに心配されてしまう。
 そう考え、立ち上がった時だ。

「君、一人?」
 いつからそこに立っていたのだろう。
 上下共にだぼっとした服装の男は、センスの悪い色眼鏡の中で愛想良くカスミに笑いかけた。
「良かったら、オレと一緒に飯でもッ!?」
 男は全部の科白を言い終える事ができなかった。
 理由は簡単。『何か』が彼の鼻先すれすれの所を通り抜け、染髪を繰り返して傷んだ前髪を焦がしたのだ。
 男は前後左右見回したが、火の気はない。困惑する男だが、それと反対にカスミは冷静だった。
 飛んできた『何か』の正体と、それを飛ばしたのが誰であるかを知っているのだ。知らないのは、慌てふためく目の前の男だけ。

「い、一体、何なんだ?」
「『何だかんだと聞かれたら』……いや、『何だかんだの声を聞き』の方が良いか?」
「ピカ、ピカチュピカカカピカ」
 カスミの後方から、聞きなれた声と文句が聞こえてくる。
 声は次第に近付き、草を踏む音と何やらパチパチと線香花火にも似た音まで聞こえてきた。どうやら、彼女の予想が当たったようだ。
「まあ、どっちでも良いや」
 声の主は、カスミを男から隠すようにして立ちはだかった。帽子で押し潰してもなお爆発している剛毛と、肩に乗せたピカチュウ。間違いない、サトシだ。
「何だ、お前。邪魔すんな!」
 突如現れたサトシを、男は怒りを顕にして睨め付ける。しかし、それに動じるサトシではなかった。

「おにーさん、俺が笑っている内に帰った方が良いよ」
「あ?」
 にっこりと笑って、サトシが指差したのは肩に乗せたピカチュウ。男は最初、方眉を寄せて凄みを利かせていたようだったが、それを見た瞬間青ざめた。
 ピカチュウの赤い電気袋からは、パチパチと音を立てて放電されている。線香花火のように聞こえたのは、この音だったのだ。
「俺今、ちょーっと虫の居所が悪いんだよね。うっかり口が滑っちゃうかも……」
「あーっとぉ! オレ今から友達と待ち合わせしてたんだった。ゴメンねー、折角だけどまた今度。じゃ!」
 男はそのまま、走ってどこかへ行ってしまった。姿が見えなくなる直前に、角を曲がり損ねて派手にすっ転んだが、そんなアクシデントに負ける事なく、男は風の如く消え去った。

「あれは痛そう……」
「ピカチュウの電撃の比じゃないさ。帰るぞ」
 しれっと言い放ち、カスミの手を掴んで歩き出したサトシの後を、彼女は慌てて追う。
 ぐいぐい引っ張られて、時折足が縺れそうになりながらも、二人と一匹は本格的に暗くなる前に、宿泊先のポケモンセンターに到着した。



「さっきは怒鳴ったりして、ごめんなさい」
 部屋に入ると同時に、繋いでいた手をきゅっと握ってカスミが謝罪した。
「どうしてカスミが謝るんだよ。無理言ったのは俺の方……」
「サトシは悪くないよ! でも何だか……恥ずかしくて」
 繋がっていない方の手で顔を隠し、斜めの方向に背ける。「可笑しいよね」と声に笑みを含ませているが、表情がよく見えないから本当に笑っているかどうかは判らない。
 が、どうしてだろう。笑う所ではないと解っているのに、表情筋が緩んでくる。

「なあ、それって好きって事?」
「あんた馬鹿ね。嫌いだったら……」
 呆れたような声を上げ、カスミが一歩彼に近付いた。そして、

 ちゅ。

 ほんの一瞬、可愛らしい音と共に、サトシの唇に暖かいものが触れた。
「こんな事、できないでしょ?」
「カ、カスミッ!」
「ふふふ。スキンシップよ、スキンシップ」
 顔を真っ赤にして慌てふためくサトシの反応を面白がって、カスミは彼の胸に擦り寄ってくる。
 視線を斜め上に漂わせたまま手のやり場に困っているサトシを、彼女はクスクスと声を抑えて笑った。

「………………」
 この野郎。
 出かかった言葉は喉元で押し留めた。代わりに、浮いていた両手をカスミの細い腰に回す。
「ん?」
 不穏な気配を察知したのだろう。笑顔を引っ込め、油の切れたからくり人形のようにゆっくりと顔を上げる。ギギギ、と渋い音が聞こえてきそうだ。
 少しばかり顔色が悪くなったカスミと目が合い、サトシはニッと歯を見せて笑う。と、腕の中で彼女の身体がピシ、と固まったのが解った。

「サ、サトシ、あの……」
「俺も、カスミが好きだぜ」
「へっ? あ、きゃ……」
 途切れた悲鳴はどこへやら。
 部屋には窓際に佇むピカチュウの溜息と、時折聞こえる衣擦れの音だけが残された。


――後日談。

「ところで、どうしてあんな事言い出したのよ?」
「もうすぐ俺達が付き合い始めてから一年が経つだろ? もう一度カスミの口から『好き』って言葉が聞きたかったんだ」




 そういうことらしいです。

 蛇足になりますが、タイトルの『可愛的人』は、中国語で可愛い人、愛しい人などの意味があるそうです。
 Yahoo!の翻訳機能に教えてもらいました。(あっさり種明かし)

 遅ればせながら、ろぶさん、サイト開設一周年おめでとうございます!
 今後ともよろしくお願いします。

2007年秋 由愛夢子 

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