月のない夜空は賑やかだ。
人里離れた山奥にひっそりと存在するこの町の夜は早い。
商店街は日が傾き始めると店仕舞いを始め、そこら中に溢れていた人々も、日が落ち切った頃にはどこかへ消えてしまった。
今の時間まで営業しているのは、旅館か居酒屋くらいである。
広い町は、深い闇に包まれていた。
その一角に、一軒だけ明るい家がある。
玉砂利を敷き詰めた広い庭には、煌めく松明が等間隔に置かれており、白い地面を明るく照らしていた。
何て綺麗なんだろう。
映画のワンシーンのような景色に、日陽子は溜息を吐いた。
「綺麗でしょ。月が出ていない時にはいつもこうしてるんだよ」
振り向くと、寝間着姿の華月が立っていた。
手には黒いお盆を持っている。
「まだ起きているつもりなら、お茶飲まない?」
湯飲みが五つ、既に用意されているのを知り、日陽子は迷わず頷いた。
「皆も」
華月は後ろに向けても呼びかけた。
つられて日陽子も振り返ると、三人がこちらへ向かって来る所だった。
「全然眠くないんだけど、今何時?」
日陽子の隣にどかっと腰を降ろして、理奈が訪ねた。
「ええと……」
「十時くらいかな」
日陽子が部屋の時計を見る前に、華月が答えた。
それに対して、理奈は「ああ」と納得したように頷いた。
「どうりで」
「夜遊びばっかりしてるから」
「え? そうなの?」
日陽子の冗談に、真顔で返してきたのは麻美だ。
その顔には「ショック!」とでかでかと書かれている。
「いや、してないから」
理奈は即座に訂正するも、麻美はどうも信じ切れていない様子である。
「ぷっ」
堪え切れず、日陽子はつい噴き出した。
「あはははは!」
「木下ァ」
不意に、首筋に悪寒が走った。
両こめかみには軽い圧迫感。少しばかりふざけ過ぎたかもしれない。
「ぎゃっ! ごめんなさいごめんなさい!」
咄嗟に謝罪の言葉を連呼するも既に遅く、ぐりぐりと捻りを加えられて、更に強く圧迫された。
「痛い! 痛いですってば!」
「当たり前でしょー。痛いようにやってんだから」
「いだだだだ! た、助けて……姫先輩ッ!」
あまりの痛さに絶えかねて、咄嗟に助けを求めて手を伸ばす。
「あらあら、可哀相に」
「感情篭ってないよ、姫」
「助けてあげなよ。理奈って基本的に星来の言う事しか聞かないんだから」
「うふふ、火が綺麗ねー」
わざとらしく、明るく燃える庭の松明へ視線を逸らし、星来は笑った。……白々しく。
「そんな、見捨てないで……!」
「残念だったねえ。麻美に嘘を言った罰だよ。観念しな!」
「痛い痛い痛い! いっ、ぎゃー!」
流石に近所迷惑かも。
誰かがそう言ったような気がしたが、日陽子には痛みから逃れる事しか考えられない。
身を捩り、こめかみをはさんでいる拳をどけようと、手足をじたばたさせてもがき続けた。
「あら?」
傍らで騒いでいる二人をほったらかして外を眺めていた星来が、小さく声を上げた。
「どうかした?」
「何かが一瞬、光った気がしたのだけれど」
「え?」
華月も星来がしているのと同じように空を見上げたが、時折庭で焚いている松明から火の粉が昇る以外、何も見えない。
「流れ星かな? そうでなければ松明とか」
「そんな小さい光じゃないわ。もっと大きかったもの」
「そうは言っても、今日は新月だから月は見えないし……」
二人して首を捻る。
その脇で、ずっと黙っていた麻美が微かに眉をひそめた。
「嫌な予感」
「麻美も見た?」
「うん。……でも」
麻美は日陽子と理奈をちらりと見て、唇だけを動かした。
『二人には黙っておこうね』
大騒ぎすると近所迷惑だから、とニコッと笑った。
そして麻美は何事もなかったかのように、未だに日陽子のこめかみを攻撃している理奈を止めに入った。
月のない夜空は賑やかだ。
無数の星の煌きが、暗闇を埋める。
その隙間を縫うものがあった。
どの星よりも眩い光を放つそれは、目にも留まらぬ速さで、真っ直ぐに地上へ向かってくる。
光の中心にある鋭い眼差し。
その瞳に映るのは、青い惑星に浮かぶ細長い小さな島。
そして――
ピヨピヨパレード
第0章 ターゲット
チャイムが授業の終わりを告げた。
その途端、静寂に包まれていた教室に騒がしさが戻る。
「理奈先輩」
日陽子は教室を出ると隣の教室を覗き込み、手を振った。
毎週の事に、その人は面倒臭そうな表情をしながらも、素直に席を立って彼女の側へやって来る。
「お願いします」
「ん。確かに預かった」
鎌の形をした重たいペンダントが、日陽子から理奈の手に渡った。
「危ない危ないって、煩いんですよね」
「まあ、仕方ないんじゃない? 事故があれば、責任を問われるのは先生なんだし」
体育の授業がある時、日陽子は必ず、このペンダントを理奈に預ける。
アクセサリーを身に着けていると、教師が「外せ」と言って煩いのだ。
首に着ける物は勿論、ピアスも外さなければならない。
そこまでしないと安心してくれないのが、体育の担当教師なのだ。
「ピアスは預からなくて良いの?」
「はい。安物だし、なくしても大して惜しくないですから」
ポケットにでも入れて置きます。
日陽子が腰の辺りを軽く叩くと、理奈は自分の手の中を見詰めた。
「まあ、コレに比べたらね」
「無くさないで下さいよ」
「努力はする」
「もー!」
「冗談だって。ホラ、お昼食べる時間がなくなるよ」
「いけない! 皆を待たせてるんだった!」
チャイムが鳴ってから、五分が過ぎている。
着替えの時間もあるから、さっさと食べてしまわなければ。
慌てて立ち去ろうとした日陽子だが、思い出したように立ち止まり、理奈に振り返った。
「帰りは校門で良いですか?」
「うん」
「解りました。では、また後で!」
右手を挙げ、挨拶を済ませた日陽子は、今度こそ走り去った。
途中、擦れ違った教師に廊下を走るなと注意されたが、そんな事も気にせず、彼女はあっという間に姿を消した。
「騒がしい奴」
良く言えば元気。
不意に、理奈の口元に笑みが浮かんだ。
「理奈!」
日陽子が去ったのと反対方向から名前を呼ばれて、振り返った。
「姫。遅かったね」
姫と呼ばれるのは、長い黒髪を日本人形のように切り揃えた少女。
本名は天野星来と言うが、幼い頃から理奈は彼女の事をそう呼んでいるのだ。
彼女は両手を膝に着いて肩を上下させ、乱れた息を整えようとしている。
「ごめんなさい。先生に、捕まっちゃって」
「生徒会の事?」
「そうなの」
何とか星来の呼吸が正常に戻った所で、二人は並んで廊下を歩き出した。
「嫌よね、何でもかんでも私に押し付けて」
怒ったフグのように、星来の頬が膨らんだ。
「信頼されてるんだよ」
「依存されているとも言うわ。私達だってもう三年生なのよ? そろそろ気を使ってくれないと困っちゃうわ」
「先生達だって考えてるさ」
「そうかしら?」
「そうそう。仮にも教師なんだしさ」
憤慨する彼女を適当に宥めながらも、階段を登り、最上階の人気のない廊下を進む。
そして立ち止まったドアの前。
ドアの上から『理科準備室』と書かれたプラスチック製の板が廊下に突き出している。
「でもね、理奈」
「コンコン、入るよー」
なおもまくし立てる星来の話を聞き流しながら、理奈は準備室内に鎮座する革張りの二人掛けソファに腰を沈めた。
「ノックは入る前にしないと意味がないんだよ。ついでに、口で言うものでもないからね。理奈」
白衣を着た長身の男が、優しい口調で理奈をたしなめた。
「それ、あんたにだけは言われたくないんだけど」
「私も同感よ。日暮先生」
「二人共酷いな。一体僕を何だと思っているんだい?」
「何って……」
言いよどんでいる星来に代わって、理奈は迷わず日暮を指差した。
「変態」
きっぱりハッキリ言ってやった。
ところが日暮は怒るでも悲しむでもなく、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「お褒めに預かり光栄だ」
「否定してよ。更に否定してやるから」
相変わらず笑い続けている日暮と、凄みを利かせた瞳で彼を睨み付ける理奈の間に火花が散る。
その傍らで、棘のある雰囲気に居た堪れなくなった星来が、わざと大きな音を立てて両手を胸の前に合わせた。
「いただきまーす」
「あ、そうだ姫ちゃん」
手を叩く音で何かを思い出したようで、日暮の視線が理奈から星来に移動した。
隣では、理奈が睨みを利かせている。
「最近、変な感じしない?」
「変?」
「うん。つい最近、三日前くらいからなんだけど、妙な気配を感じるんだ」
「恨まれるような事でもしたんじゃない?」
しかし日暮は首を振った。
「心当たりは数え切れない程あるけど、そうじゃないんだ」
「どういう事?」
「なんか、こう……」
「キャーッ!」
日暮が言いかけたのを遮って、耳をつんざくような悲鳴が窓越しに響いてきた。
次いで、複数人の叫び声が飛び交う。
三人が校庭に面した窓に駆け寄ったその時、彼女達はあっと声を上げた。
「こいつ……」
四階建て校舎の、最上階の窓の前で浮遊するのは、見た事もない生物とも言い難い人型の物体。
赤と緑の太い腕をうねらせたそれは、映画に登場するエイリアンのようだ。
「ねえ見て、あれ!」
目の前に気を取られていた理奈と日暮だが、星来が指し示す方を見た瞬間、大変な事が起きていると瞬時に理解した。
「あれは、木下!」
遠い地上では、日陽子がエイリアンの腕に捕えられていた。
理奈は咄嗟に窓を開けようとしたが、鍵が開いているのにビクともしない。
日陽子の身体が宙に浮き、腕に抱いていた体操着が地面に落ちる。
恐怖のせいか、エイリアンの力か、一言も声を発さぬまま、彼女の身体は本体に引き寄せられていく。
やがて、理奈達の目の前まで引き上げられた日陽子と目が合った。
虚ろな瞳だが、唇が微かに動き言葉を紡ぎ出そうとしている。
「せ、ん、ぱ」
そこまで読み解いた時、辺りを眩い光が包んだ。
彼女達も、咄嗟に目を覆った。
暫くしてその光が消えた時、彼女達の前から何一つ痕跡を残さず、エイリアンは消えていた。
腕に日陽子を抱えたまま。
冗談じゃない。
日陽子は思った。
校庭と楽に行き来できる離れのトイレで着替えようと、体操着を持って外へ出た。
ついでに昼食も屋外で摂ろうと、仲の良い友人達と日陰のベンチへやって来た。
食べるのが遅い日陽子は、先に着替えて来ようと弁当をベンチに置いてその場を離れようとした。が、それは叶わなかった。
自分の意思に反して、身体は前ではなく上へ動き出したのだ。
「キャーッ!」
程なくして、甲高い悲鳴が上がる。
腹回りに違和感があるのに気付いて恐る恐る見てみると、赤と緑のツルのようなものが巻き付いていた。
「なに、コレ」
ツルを辿って、目線を上へ上へと向かわせる……瞬間、彼女の身体は硬直した。
そこに、いてはいけないものがいる。
逆光でよく見えないが、恐らくは、身体に巻きついているツルと同じ色をした地球外生命体。
そうでなければ、どこかの国の秘密兵器か。
どちらにせよ、日陽子の身に危機が迫っている事は明らかだった。
どうにかして逃げ出さなければ。
そう思うが、意に反して身体は動かない。思うように力が入らないのだ。
きつく抱いていたはずの体操着も、重力に従って乾いた地面に落ちていく。
高度はぐんぐん上昇し、とうとう四階建て校舎の最上階まで来てしまった。
窓ガラス越しに理奈と目が合った。
「せんぱい……」
カラカラの喉から声を絞り出すが、突然目の前が揺らいで唇を閉じた。
強い光が身体を包み込む。
あっという間に、日陽子の全てが真っ白な世界に吸い込まれ、消えていった。