星姫

戻る


海の心



「お父さん聞いて!」
「どうした?」
 学校で嫌な事があって、私は仕事から帰った父に、泣きながら詰め寄った。父は着替えながら、優しい眼差しを私に向ける。
「カズちゃんたらね、また私に酷い事を言ったのよ」
「何て言われたんだい?」
 着替えを終えて、父は居間に移動しながら訊ねた。そして父がソファに腰を降ろすと、私もその隣によじ登る。
「私の事が邪魔だって言ったの。酷いでしょ?」
 クラスメイトのカズは、いつも私を目の仇にしていた。事ある毎に突っかかって来て、すれ違いざまに睨まれたり、刺のある言葉を投げかけてくるのだ。
 そういう事が入学当初から続き、そのせいで私はカズの事が嫌いだった。
 とにかく怖いのだ。私が何をしたか知らないが、理由も告げずに嫌がらせをするなど、不愉快極まりない。

「もう、カズちゃんなんか大嫌い。絶対に許せないわ!」
 はらわたといわず、心臓や血管、しまいには脳まで煮えくり返りそうな怒りが、私の思考を支配する。ところが、そんな私とは反対に、父は穏やかに微笑んでいる。
「何で笑ってるの? 娘の一大事なのよ!」
「そうだな、一大事だな。娘の心の成長期だもんな」
「心の?」
 何を言っているのだろうか。
 今は、カズがいかに悪くて、私どんなに可愛そうかという話をしているのだ。私は別に、心の話などしているつもりはない。
 しかし、父は私の頭に手を置き、少しだけ笑みをしまい込む。そして私と視線を合わせて訊ねた。
「リラは、カズちゃんと友達になりたくないのか?」
「そんなの、ある訳ないじゃない」
 何を当然の事を言っているのだろう。だが、父は表情から笑顔を完全に消して、真剣な面持ちで私を覗き込む。
「リラ、出来事には全部、意味があるんだよ。どんなに嫌な事でも、それは全て、未来を生きていく上で大切な事なんだ」
「どういう事?」
 訳が分からない。嫌な事に意味がある? そんな事、ある筈がない。
 そう思うが、どうも引っ掛かる。

「これは昔、父さんの先生が話していた事なんだけど、試練は自分が変わるチャンスなんだって。例えば、友達と喧嘩して、相手が謝るまで許さないと思っていたとしよう。そんな時、もしも、相手も自分と同じように考えていたらどうする? それか、相手は自分を怖がって声をかけづらいと思っているかもしれない。そうなったら、自分から声をかけないと、関係は元通りにならないよな?」
「……そうね」
 確かに、相手が自分と同じ気持ちでいたなら、自分を恐れていたなら、相手が動くのを待っていては、すぐに以前に戻る事はできないだろう。待っている内に、関係がこじれて修復不可能になってしまうかもしれない。
 何となく理解できたと伝えると、父は頷いて私の頭を優しく撫でた。

「リラも同じだよ。いつもいつも、カズちゃんを嫌いだと言っているけれど、本当に嫌いなら無視すれば良いだけだ。それを気にするという事は、リラはカズちゃんと仲良くなりたいんじゃないのか?」
「そんな事……」
 そんな事ない。そう言おうとしたが、最後の一言が出てこない。
 本当に、私はカズの事が嫌いなのだろうか。ずっと信じて疑わなかった自分の気持ちに、小さなひびが入る。
 そこに、父の静かな言葉。
「リラ、許せる人になりなさい。今すぐは無理でも、いつかきっと解る日が来るから」
 そう言う父は、真剣な目をしている。
 カズが今まで、私に嫌がらせしてきた事は許せない。だが、それをいつか許せた時、リラはどのように変わる事ができるだろうか。
「もし、私がカズちゃんを許せたら……」
「そうしたらきっと、リラはとても優しい人になれるよ。例えるなら、海のような心の持ち主だね。その人がどんな違いを持っていても、それを差別する事なく、あらゆる人を包み込めるようになれる」
「海の心……」

 この時、私の中で何かが変わった。さっきまでカズを恨んでいた心は薄れ、入れ替わるように、暖かい光が差し込んできたのだ。
 そして、私の前に新しい目標が立ち現れる。
「お父さん、私、海の心が欲しい」
 全てを包み込む海への憧れが、私を駆り立てる。
 もし、カズと友達になれたなら、どんなに素晴らしいだろうか。あれほど嫌いだったのに、だ。
「私、カズちゃんと友達になりたい」
 願いを立てる私に、父は嬉しそうに笑って頷く。そして、私の頭に置いた手を軽く上下させた。
「頑張って」
「うん」

「お、おはよう」
 次の日学校に行くと、私は真っ先にカズに声をかけた。するとカズは案の定、驚いたように目を丸める。
「……おはよう」
 少しして、カズの声が返ってきて私は少し安堵する。そして彼女の顔を見て、私は思わず顔をほころばせた。
 カズが笑っていたのだ。
「カズちゃん、今日一緒に帰らない?」
「うん、良いよ」
 これが私達の始まり。それから七年が経ち、私は十七歳になっていた。カズとは未だに交流が続いており、かつてあんなに嫌っていたのが嘘のように仲が良い。
 あの日願った、海の心を手に入れる事ができたかどうかは分からない。だが、あの頃許せなかったカズとの時間を、私は今、大切な思い出として持っている。
 これは一体、どういう事だろうか。


戻る


Copyright(c) 2007 Yumeko Yume all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-