私って馬鹿だなあって、つくづく思う。
ついでにドジで間抜け。
……もう、救いようがないわね。
華月と喧嘩をして、私は怒りに任せてその場を離れた。
皆の呼び止める声は聞こえたけど、その中に華月のものはなかったから、私はますます面白くなくて意地になって走り出した。
そんな、負けず嫌いな私の性格が災いしたみたいだわ。
「情けない」
呟いて、私は深い溜息を吐いた。
今日は皆で泉ヶ岳に遊びに来ていた。
いつもの四人に加え、斉藤兄妹と私のお父さん、華月のお父さんも一緒。
でもそれが、いつの間にか私一人きりになっている。
「まさか、こんな事になるなんて……」
闇雲に駆け込んだ登山道。
少し細い道に入った途端、そこにあるはずの足場は消えていた。
長く伸びた草に隠れて、地面の切れ目が見えなかったみたい。
幸い、落ちた崖はそれほど高くなかったから、怪我も擦り傷切り傷程度で大したことはなく、命に別状はない。
とは言え、本来のルートから外れてしまった事は確かで、このままここに座り続けてもどうにもならない。
この崖を登る事を考えると溜息が出るけど、そんな事は言っていられない。
そう自分に言い聞かせて、私は立ち上がろうとした。
けど。
「いったーい!」
足に力を入れた瞬間、鋭い痛みが走る。
靴下をめくってみると、草や枝で切った傷がない代わりに、足首が赤く腫れ上がっている。
最悪の状況に、血の気が引いていくのが判った。
「ど、どうしよう……」
ここから出ない事には戻れないし、でも崖を登るには足が辛い。
だからと言って、ここでじっとしていれば……。
不意に、目の前の木が目に入る。
この辺りでは割と若そうな葉緑樹。
女の私でも楽々腕を回せてしまえそうなその幹には、深い傷が刻まれている。
根元を見てみると、大きな足跡が。
「……嘘でしょう?」
どうやら、ここは熊のテリトリーらしい。
本気で本当に最悪な状況。
ただの遭難とかのレベルじゃないわよ、これは。
一気に血の気が引く頭と、それに反比例するようにどんどん熱くなる足。
私の身体は、自分でも追いつけないくらい混乱していた。
一体どうやって、この状況を脱すれば……。
ただそれだけが、頭の中をぐるぐる回っていた。
そして、必死に考えた末に出た答えは、
「そうよ、まずは熊と遭遇しないようにしなくちゃ」
だった。
たしか、前に野外活動でこの山に来た時には、熊鈴を持たされた。
音を鳴らして自分の存在を知らせる事で、熊は寄って来なくなるらしい。
それを思い出し、私は何か音が出るものを考えた。
バッグにはキーホルダーのホイッスルが入っていたけど、あれは置いてきてしまったし、なぜかポケットに入っていたブレスレットでは音はならない。
「何もないじゃない」
無駄に色々持って来ておきながら、肝心な時に役に立たない。
自分のドンくささに改めて気付き、私は本気で落ち込んだ。
「もう、何だって言うのよ……」
喧嘩なんてするんじゃなかった。
……今更反省したって、遅いんだけどね。
喧嘩の始まりは確か、私が華月と斉藤先輩の仲を疑ってからかった事だったと思う。
あの時華月は、「違う!」と何度も否定をして、その度に私は「またまたあ」と冷やかした。
そうだ、それに華月が怒って、その態度に私もムカッとして……。
その後はお約束の口喧嘩になったんだっけ。
あそこで私が堪えていれば、こんな事にはならなかった。
今更ながら、感情に流されやすい自分に呆れると共に、深く後悔した。
「そういえば、あの子にも酷い事言っちゃったわね」
最後に見た華月の顔は、今にも泣きそうだった。
当たり前よね、「大嫌い!」なんて言っちゃったんだから。
私だって、華月に「嫌い」って言われたら、きっと泣いちゃうわ。
「華月、ごめんね」
こういうことは、面と向かって言わなきゃ意味ないのに。
とことん駄目な自分に、私は呆れを通り越して苦笑した。
その時だった。
頭上でガサッと音がして、いよいよ熊が出たかと思って身を硬くする。
「やっと見付けた!」
「……え?」
吠えられるか襲われるかと覚悟していたけれど、聞こえてきた声は想像していたものより高かった。
しかもそれが聞き覚えのある声だったから、私は更に驚いて上を見た。
「こんなところにいたんだね。待ってて、今お父さん達呼ぶから」
そこにいたのは華月だった。
彼女の顔には、さっきまでの怒りや悲しみの色はなく、ただ優しい笑顔だけが表に出ている。
「お父さん、カズおじさん! 星来見付かったよ!」
一瞬華月の顔が見えなくなり、お父さんと裕也おじさんを呼ぶ声が聞こえてくる。
それからすぐに彼女は顔を覗かせ、辺りをきょろきょろと見回した。
「足場ないんだ。どこから降りたの?」
「こんなところに自分から降りる訳ないでしょ。落ちたのよ」
こんな事を言うのも恥ずかしいけど、ちゃんと言った。
すると華月は「ええっ!」と大声を上げて目を丸くする。
声の大きさに驚いた鳥が、慌てて逃げ出した。
「大丈夫なの? 怪我は?」
「足をちょっと捻ったみたいだけど……」
「やだ、嘘! 私が見付けなかったらどうするつもりだったの?」
そんなに大声を出さなくても、おばあちゃんじゃないんだからちゃんと聞こえるのに。
この感じでは、近くに熊がいても鳥と同じように逃げ出したかもしれない。
そんな事を考えている内に、草を分ける音が近くなった気がして目をやる。
と、私は我が目を疑った。
「よっ……と」
「ちょっ、何やってるのよ!」
「星来、声大きい」
今度は私の声に華月が顔をしかめる番だった。
自分でも少し驚いたけど、今はそれどころではない。
「何って、降りて来たよ。星来一人じゃ寂しいでしょ?」
華月は何でもない事の様に、するりするりと崖を降りて来て、私の前にちょこんとしゃがみ込んだ。
その身のこなしはまるで猿のようだと思ったけど、また喧嘩になりたくないから、それはのど元で留めておく。
「戻れなくなったらどうするの?」
「大丈夫だよ、お父さん達来るし」
「そういう問題じゃ……」
言いかけて、止めた。
そういう問題じゃない。けど、もっと先に言う事があるじゃない。
「星来、どうしたの? 足痛い?」
急に黙り込んだ私を覗き込み、華月が心配そうに声をかける。
ああ、私……やっぱり馬鹿だ。
「せい……」
「ごめんなさい」
「ら?」
きょとん、と華月が首を傾げる。
「忘れた訳じゃないでしょう? さっきの事」
「ああ、あれね」
途端に華月は笑顔を作り、右手を顔の前でひらひら振る。
「気にしてないよ、私も悪かったし。それに、あれが星来の本心じゃない事くらい解ってるもん」
「私を誰だと思ってるの?」って胸を張るけど、それでも私は気が治まらなくて、髪が乱れるほど頭を振る。
「でも、すごく酷い事を言ったわ。その上、こんな勝手な事をして、怪我までして……」
涙が出てきそう……本当に駄目な子ね、私。
しかし華月は、俯く私の頭をポンポンと優しく叩く。
何でこんなに優しいのよ。本当に泣きたくなるじゃない。
「ごめ、なさ……」
「ごめんはもう聞いた」
涙ながらの「ごめんなさい」に、華月は小さく首を振る。
……そうね、もっと他にも言うことがあるわ。
私達の頭上で、ガサガサと草を掻き分ける音がする。
その音が大きくなる前に、私は華月の顔を見て、精一杯の笑顔と共にこう言った。
「ありがとう」
その言葉を聞くと、華月は嬉しそうに笑って私の両手を握る。
「仲直り」
「……うん」
私も手を握り返すと、彼女はまた笑った。
「おーい、大丈夫か?」
「お父さん!」
草の音が一際大きくなり、お父さんが顔を見せた。
その後ろには、裕也おじさんもいる。
「こんな所に崖があったのか」
「さっき通った時には判らなかったな」
「私が見付けたんだよ」
崖の下で、華月が手を挙げる。
「よくやった、後でご褒美をあげような」
「やったね!」
ご褒美がもらえると判ると、華月は下げていた方の手も挙げて万歳をする。
「もう、結局それなのね」
怒ったような口調にしてみたけど、それはフリだけ。
華月やお父さん達もそれを解っているようで、私達は揃って声を上げて笑った。
それから私は、お父さんに抱えられて崖下から脱出した。
裕也おじさんも華月に手を貸そうとしたけれど、彼女は「大丈夫だから」と言ってその申し出を断り、自力で崖を登って来たのには驚いた。
お父さんと裕也おじさんも驚いた顔をしていたけど、すぐに「さすが、俺の娘だな」と裕也おじさんが笑っていたのは、どういう事かしら?
「さ、早く帰ろう」
「そうだな、皆も心配しているぞ」
「うん!」
お父さんに抱っこされたまま、私は頷く。
顔を上げる途中、今まで私がいた崖下が目に入る。
「……あ」
「どうした?」
「ううん、何でもないの」
あの小さな空間を取り巻く藪が、少し揺れたような気がしたけど……
「きっと気のせいよね」
うん、そうする事にしよう。
「何が気のせいなんだ?」
「だから何でもないってば、気にしないで」
宙に浮いた足をバタバタさせて、私の独り言に二度も反応したお父さんに言い聞かせる。
半分は自分に言い聞かせる意味もあったけど、それは内緒。
そうよ、きっと気のせいなのよ。
揺れた藪の奥に、黒い何かがいたなんて……見間違いよね?