“R”

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春のドライブ

「春ですね」
 助手席に座る少女が呟いた。
 ハンドルを握る男は大きな角をひとつ曲がると、川の両脇を埋め尽くす淡い紅色を見止めて「ああ」と声を返した。
「一目千本桜ですね。去年も友達と来ましたよ。その時もすごく綺麗でした」
「そうか」
 短く答える男に、少女はなおも楽しげに話しを続ける。
「今年も次のお休みの時に、学校の友達と来る予定なんです」
 今度は男は相槌を打たなかった。
 少女が様子を窺うために隣を見ると、彼はただ進行方向だけ見ていて、彼女が自分を見ている事にも気付いているかどうか些か怪しい。
(もう……)
 少女は男に気付かれないよう、そっと溜息を吐いた。
 唇を尖らせ、頬を膨らませても、彼が少女に言葉をかける事はない。
 それが面白くなくて、彼女は窓の外を流れる景色に関心を移すことにした。
 家々の屋根越しに見える小高い山の頂から、桜色が溢れて流れ出して川縁にまで届いている。
 その淡い色は、不満で荒れそうになった少女の心を優しく撫でて落ち着かせてくれた。
「……本当に綺麗」
 先程とは全く意味の違った溜息が唇から零れる。

「おい」
 暫しの間、景色を堪能していた少女だが、ふいに呼ばれて運転席に振り向いた。
「はい」
 一瞬、先の不満が思い出されたが、それとこれとは別物として一旦脇に置き、素直に返事をする。
 男は横目で少女を一瞥すると進行方向に視線を戻した。
「あの……」
「行きたい所はあるか?」 
「え?」
 予想もしなかった問いに、少女は思わず聞き返した。
「折角ここまで来たんだ。用事を済ませたら、花見にでも行こう」
「本当ですか?」
「ああ」
 頷く彼の横顔は穏やかに微笑んでいる。
 それを見ると途端に、少女の胸は嬉しさでいっぱいに満たされた。
「私、穴場知ってます。近くに美味しい和菓子屋さんもあるんですよ」
「そうか、それは楽しみだな」
 私も楽しみです。
 そう言うと、男はちらりと少女を見て口の端を上げた。


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