青い空に薄っすらと鱗雲が掛かる土曜日、華月は作業する手を止めて、高く突き抜ける秋空を見上げた。
今は晩秋。冬を間近に控えたこの季節の空は、他のどの季節よりも爽やかで清々しい。
「あ、飛行機雲!」
不意に目をやった所に、風に流されて蛇行した飛行機雲を見付けた。
その先頭では、白く輝く機体が、大空を真っ直ぐに駆けている。
「コラ華月。よそ見しないで、手を動かしなさい」
声と共に、後頭部が軽く叩かれる。
振り向くと、竹箒を肩に担いだ星来が、腰に手を当ててこちらを睨んでいる。
「星来、箒の柄で叩いたね?」
ごく軽い力ではあったが、堅い竹で叩かれたのだ。痛くない訳がない。
恨みがましい視線を送ると、星来は小さく息を吐いて、箒の柄を華月の鼻先に突き付けた。
「サボってるあんたが悪いのよ」
「別にサボってなんか……」
確かに、少し腕がだるくなったし、ずっと立っていたせいで足も痛い。
そして、今空を見上げた時に息継ぎできたのも本当だ。
だが、それはほんの一瞬だ。
その一瞬を、その瞬間しか見ていなかった人に咎められたくはない。
そのように言って、華月と星来が睨み合いを始めた時だ。
「おーい、そこの二人! 遊んでないで、暇ならこっちを手伝ってくれないか?」
家の方から、星来の父・和也の呼ぶ声がした。
和也の言葉に、二人は少しむっとして、揃って声を返した。
「遊んでないもん!」
しかし、和也は二人を呼ぶ事を止めず、なおも声を張り上げている。
「良いから、来てくれ!」
「もう、何なのよ!」
とうとう星来は諦めて、箒を持ったまま家に向かって歩き出した。
華月も、星来の後に続いて歩き出す。
そして、急な坂を上ったすぐ上に建つ、大きな屋根を持つ家が見える所まで来ると、そこで待っていた和也と、華月の父で和也の兄でもある裕也が、二人に笑いかけた。
「どうだ、はかどっているか?」
「まあ、それなりに」
この日華月達は、父方の実家に来ている。その目的は落ち葉掃きだ。
山間にあるこの集落では、一年を通して飽きる事のない景色を見る事ができる。
春は珍しい花々が咲き、夏は山の緑と虫達が元気に飛び回る。
秋は紅葉が山を染め、冬には純白の雪が全てを覆い、無音の世界へと人々を誘う。
何年、何十年暮らしていても飽く事のない景色。
だが、このような街から離れた所では、美しい景色の後に訪れる仕事が、そこに暮らす人々を困らせる。
「でも、楽しいよ。空は綺麗だし、空気も清んでるし」
「それは、華月がここに暮らしていないから言えるのよ。おじいちゃんとおばあちゃんは、少ししたらまた掃除しなくちゃいけないのよ」
「そんな事、分かってるもん」
だが、たまにしかできないからこそ、楽しみたい。
そう思うのは悪い事だろうか。
「まーたそんな事言って……」
「華月には、山の暮らしが向いているのかもしれないね」
正論を言おうとする星来の声を遮って、低く暖かい声が彼女達の間に落とされた。
声のする方を見ると、目尻に深い皺を刻んだ彼女達の祖父が、優しく微笑んでいた。
「おじいちゃん」
二人で声をかければ、祖父はまた目を細め、彼女達の前に歩み寄った。
「二人共、よく頑張ってくれたね。おかげで、歩きやすくなったよ」
今まで祖父がいたのが、華月達が担当していた私道を望める小道だったから、彼女達の様子がよく見えたのだろう。
「ねえ、華月が山の暮らしに向いてるって?」
星来が、あまり面白くないと言うように訊ねた。
すると祖父はにこりとして頷くと、裕也と和也の顔を交互に見た。
「天家では昔から、一番上の子が天満の名を次いで、他の子は別の名を名乗らせているんだよ。その時、天満を次ぐ子は将来、山にある本家に戻ってそこで暮らすようになるんだよ」
「そうだったの?」
名前の事は、以前学校の課題で調べたから知っていた。
だが、将来住む場所まで決められていたとは知らなかった。
「ねえ、おじいちゃん。その話、もっと聞きたいわ」
星来が両手を組んでねだる。
しかし、祖父は目を細めたまま首を振り、手に持った箒を軽く持ち上げた。
「今はそんな事よりも、掃除だよ。お前達はまだ、落ち葉を集めただけで片付けてはいないだろう?」
「あっ!」
「そうだった!」
華月と星来が顔を見合わせると、和也が呆れたように息を吐いた。
「まだだったのか」
「だって、お父さんが呼ぶんだもの」
「片付けて来るね」
文句を言う星来の手を引っ張って、華月は元来た坂を駆け下りて行った。
「やだ、待って。早いってば!」
急な坂を駆け下りる途中、星来が悲鳴にも似た声を華月に投げかけた。
それから、華月は少し速度を緩めたが、短い坂だ。すぐに元いた場所へ辿り着いた。
「さ、片付けるよ」
「あっ、ちょっと!」
星来はまだ何か言いたそうにしていたが、それを無視して華月は枯葉の山を、用意していた町指定のゴミ袋に詰め込んだ。
星来も、何やらブツブツと口を動かしつつも、手際良く片付けていく。
「ご苦労さん」
そして、全ての山を片付け追えた時だ。
二人の父親と祖父が坂を下りて来て、トタン作りの物置の前で立ち止まった。
「その袋をよこしなさい」
言われるままに、枯葉が詰め込まれた透明のビニール袋を裕也に手渡す。
彼は受け取った袋を近くに停めてあった軽トラックの荷台に乗せ、星来が手渡した袋も同じようにトラックに乗せた。
そして、その後も同じような袋をいくつも積み込み、全部詰み終わったかと思うと、今度はトラックに乗り込みエンジンをかけた。
「捨てに行くの?」
「お前達も来なさい」
そう言って、今度は和也が、トラックの隣に停めてあった軽ワゴン車のロックを解除した。
「どこへ行くの?」
乗り込みながら訊ねたが、和也は答えず軽く口の端を上げるだけ。
「どっこいしょ。さあ、行きましょうか」
祖父が軽ワゴンの助手席に乗ると、和也はエンジンをかけて、ルームミラー越しに後部座席の二人に目をやった。
「しっかり掴まっているんだぞ」
それだけ言うと、車は元気良く走り出した。
最初の勢いが良かったから、県道に出てからすぐに速度が落ちた時は意外だった。
それは本当にすぐで、数百メートルも走らない内に減速したのだ。
そして左折の合図を出し、ガードレールの切れ目に車体を滑り込ませる。
ここでようやく、華月と星来は、自分達が向かっている場所を予測する事ができた。
「畑へ行くのね」
「その通り」
和也が、正解だと笑みを浮かべる。
ガードレールの向こうに続いていたのは、舗装されていない細い道だ。
軽自動車が枝葉を掠りながら、ようやく通れるような細道のその奥に目的地はある。
狭い道の先に、突然現れる広い空間。
周りを森に囲まれたそこは、昔、蚕に与える桑を育てていた所だ。
養蚕を辞めた今でも、当時植えた桑は根を張り他の作物を受付けない。
せいぜい、春に蕗やわらびなどの山菜が取れる程度で、後は使っている所を見た事がない。
だが、そんな桑畑でもたまには役に立つ時がある。
実は養蚕を辞めた時、この広い桑畑の一部を整地して、他の作物を育てられるようにしたのだ。
その畑の前に、華月達を乗せた車は停まった。
車を降りて見ると、畑の中央で裕也が蹲っている。気が付いてみれば、裕也の前には小さな山があり、それが赤々と燃えているではないか。
「何をするの?」
星来が大人達に訊ねた。
だが、その問いに誰も答えない。星来はいつものように頬を膨らませ、不満を表現する。
だが、この光景を見れば、これから何をしようとしているのか、瞬間的に分かってしまう。
「もう、教えてくれたって良いじゃない!」
「本当に分からないの?」
「華月は分かるの?」
苛々と声を荒げる星来を覗き込み、華月は首を傾げた。
ここまで見ておいて、何をするかなど、愚問ではないか。
「多分ね」
星来の問いに答えると、華月は火の前に屈んでいる裕也の斜め後ろに立った。
「後どれくらい?」
「まだかかりそうだな」
裕也は答えると立ち上がり、土の付いた膝を軽く払った。
そして振り返ると弟の和也に声をかける。
「後は頼んだぞ。俺は、火扱いはそれほど上手くないんでね」
それから、「お前の方が得意だろう」と付け足すと、和也は一度面倒臭そうに顔を歪めたが、逆らう事なく「ああ」と短く返事をして、裕也と場所の交換をした。
それから暫くの間、星来は機嫌が悪かった。
聞いても、誰も質問に答えてくれないから、拗ねてしまったのだ。
「星来、お茶……」
「いらない」
華月は家から持って来たほうじ茶を差し出すが、星来はそれを拒否して、鼻先を華月とは反対方向に向けてしまった。
「いつだってそうよね。私だけが何も知らないのよ」
そう言って、星来はあの時もこの時もと、半年も前の事まで持ち出してはくどくどと不満を吐き続けた。
華月は最初、黙って聞いていた。
だが、聞いている内に段々耐え切れなくなって限界に近づいた時、「よし、できた」和也の喜ぶような声が聞こえて来た。
「何ができたの?」
一方的な話を中断して、星来が訊ねた。
華月は内心ホッとしながら、星来と一緒に和也の方を見る。
あの山が何を焼いているのか、華月は何となく分かっていた。
ただ、それが絶対かと訊かれれば頷けないために、星来には黙っていたのだ。
「さあ、星来。手を出すんだ」
言われるがままに、星来は細い手を和也の前に出した。
「熱いから気を付けて」
良いながら、新聞紙と共に渡されたもの、それは。
「わあ、いい匂い!」
手元から昇って来る香りに、星来は思わず顔を綻ばせた。
「華月も手を出して」
「わーい」
華月も差し出された、長くて黒いものを受け取ると、思わず笑顔になる。
「やきいもだわ」
ようやく触れるようになった黒焦げの包みを開けて、星来が歓声を上げた。
包みの中に現れたのは、鮮やかな黄色。薩摩芋だ。
華月も、熱くなった包みを抓んで開けると、中から黒い皮と暖かい中身が同時に現れる。
「美味しそう……」
「美味しいわよ」
早くも一口頬張っている星来が、嬉しそうに言った。
「さっきの不機嫌はどこへ行ったの?」
「知らないわ」
何事もなかったかのように答える星来に、その場にいた全員が大笑いした。
星来はその様子が面白くないようだったが、文句は言わず、代わりに手元の芋に齧り付く。
「華月も食べなさいよ、本当に美味しいわよ」
「うん」
まだ笑いが収まらない華月だが、星来が睨み付けて来たので、そこで一旦笑いを押し留めた。
そして、いくらか冷めて食べやすくなった黄色い身に口を付けた。
「……美味しい」
「でしょ?」
まるで自分が作った芋のように、誇らしげに笑う星来が可笑しくて、また笑いそうになったが何とか耐える事ができた。
「たまにはこうやって、外で食べるのも良いね」
「あら、私は毎日だって良いわよ」
華月の言葉に星来が返す。
二人は顔を見合わせると、同時に吹き出してそのまま暫く笑っていた。
「あ、雪虫」
ようやく笑い終えた二人の前を、白い小さな虫が横切った。
あと少しで、寒い冬がやってくる。