恋風 ‐こいかぜ‐

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一筋の風



 夏休みが始まってから一週間が経つと言うのに、そんな気は全くしない。
 学校に行く機会はぐっと減ったものの、その代わりに毎日のように私は塾へ行く。
 結局のところ、夏休み前の方が気持ち的に余裕があったように思える。

 家からバス停に向かう途中、小さな公園を横切った。
 早い時間だというせいもあってか、夏休みなのに子供の姿は一人も見当たらない。
 もともと目立たない場所にある公園だし、大した遊具もないから、もしかしたら少し行った所にある大きい公園へ行ったのかもしれない。
 ほとんど無意識に公園の出入り口を見た私は、これまた無意識に溜息を吐いた。
 憂鬱。本当だったら、今日は中学校の友達と一緒に遊びに出かけているはずだったのに。
 中学三年生になった私を、母は遊びになど行かせてくれなかった。
 それもそのはず。
 私の父は市の職員。兄は全国的にも有名な大学に通っていて、母も昔は小学校の先生をやっていた。
 家族揃って、学歴を重視したお堅い頭をしているのだ。
 当然、家族は私にも良い高校へ行って、良い大学を出て、良い会社へ就職する事を望んでいる。
 そのためには、今の内から勉強に集中して、良い高校とやらに行けるほどの頭を作らなければならない。
 私は良い学校、良い会社へ行く事に異存はない。
 しかし、どうも納得いかない。
 何がと聞かれると困ってしまうが、今こうして親友と過ごす僅かな時間すら奪われている事は勿論面白くないし、夏休みの醍醐味を一つも味わえそうにない事も不服である。
 だがそれだけでなく、もっと面白くない、納得のいかない事がある気がするのだが、どうしてもその正体が分からずに余計にモヤモヤする。

 悪循環を抱えて一人でモヤモヤしている私は、いつの間にか立ち止まっていた。
 この公園を抜ければ、バス停はすぐそこ。
 バスに乗れば、二十分もしない内に塾に到着する。
 バスの発車時刻はあと……五分。

 行かなければと思うが、足が動かない。
 まるで錘が付いているかのように重くて、足を地面から剥がす事も難しそうだ。
 不意に、腕に抱えた鞄をぎゅっと抱き締める。
 夏の太陽が、私の剥き出しの肩をじりじりと焼いていく。
 日焼け止めを塗って来るのを忘れていた。
 軽い後悔を覚えながらも、私はその場を動けない。
 ……いや、動きたくなかった。

 黄色い車止めが嵌め込まれた公園の出口をじっと見詰めて、私は眉を寄せた。
 バスが来るまであと四分。
 早く行かなければ……でも、行きたくない。
 なぜかそんな重い言葉ばかりが湧き出てくる。
 胸の中はグレー一色に染まり、夏らしい明るさはどこかへ行ってしまった。
「どうして……」
 行かなきゃいけないのに、行かなければ母に叱られるのに……どうして足が動かない?
 誕生日に仲良し四人組の一人からもらった、銀色の花を模った時計を見た。
 あと三分でバスが来てしまう。

 どうしよう、どうして……と自問を繰り返す私の視界に、動くものが入り込んだ。
 ハッとして顔を上げると、少し長めの髪をハリネズミのように立てた男の人が、私のいる方に向かって歩いて来る所だった。
 突っ立っている私と目が合うと、彼は不思議そうな顔をしたが何も言わずに脇を通り過ぎて行く。
 白いTシャツを着て颯爽と歩く姿は、まるで一筋の風のよう。
 思わず振り向いた私に、彼は一度も振り返る事なくどこかへ去って行った。

 格好良い人だったな……。
 さっきまでの重い心が嘘のように、私は元気を取り戻した。
 あの男の人とすれ違っただけで、風が心の中を走り抜けたような爽快さを覚えた。
 不思議な気持ちに、私はぼんやりとして彼が消えて行った木立へ向かう道を見詰める。
 身体ごと後ろを向こうとして足を動かした時、ジャリ、という砂の音に混じって聞きなれない音を耳にした。
 足元を見る。どうやら石のようだ。
 ただし、そこら辺に転がっているような物ではなく、透明で、人の手が加えられた……水晶のような石。
 手に取ってみると、綺麗にカットされて磨かれたそれは、ますます水晶に似ているように思える。
 本物にあまり縁のない私には、それが水晶かただのガラスかは分からなかったけれど、とても綺麗な事には違いない。

「さっきの人の落し物かな?」
 届けなければ。
 そう思って手を見たのだが、ちらりと見えた時計が目に入った瞬間、そんな考えは吹き飛んだ。
 あと一分ほどでバスが来てしまう。
「急がなきゃ!」
 拾った石をスカートのポケットに押し込んで駆け出した。
 公園を出るとちょうど、バス停に緑色の市営バスが到着したところだった。


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