恋風 ‐こいかぜ‐

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第2話 お化けが降って来た



 もうすぐ午後六時になろうとしているのに、空はまだ明るい。
 私はバスから降りると、朝来た時と同じ道を辿り、誰もいない公園に足を踏み入れた。

 鉄棒の影が長く伸びて、足下に滑り込む。
 私は細い影の上を綱渡りのようにして渡って行き、少し離れた所に続いている花壇の影に飛び移った。
 足元から視線を前に向けると、そこから見る景色が今朝の記憶と重なって見えた。
「そういえば……」
 思い出して、スカートのポケットを探って取り出したのは、あの時拾った水晶に似た石。
 夕焼けに翳してみると、透明な石は空を歪めて映した。
 翳した石はそのままに、私は白く乾いた足元の土を見て、また手元に目を戻す。
 この石はここで拾ったのだ。

「返さなくちゃ」
 持ち主はきっと、今朝すれ違った男の人に違いない。
 ハリネズミ頭と白いTシャツ姿を思い出し、私は知らず頬を染めた。
 格好良い人だった。
 見た事のない人だったけれど、ラフな格好をしていたから、多分近所の人なのだろう。
 しかし、本当に近所に住んでいるのか、それよりも彼は誰なのか。
 人探しをするには情報が少なすぎる。その事に今更気付き、私は思わず肩を落とした。
「私ってホント、トロすぎ……」
 こんな事なら、今朝遅刻してでも追いかけて届ければ良かった。
 遅すぎる後悔を抱きつつ、彼が消えて行った木立の小道に目をやった。

 まさかもういないだろうけど……ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。
 腕時計を見ると、予定していた時間よりも少し早い。

 行ってみようか……。
 そう意識に過ぎるのとほとんど同時に、私は歩き出していた。
 両脇に葉緑樹が生い茂るこの遊歩道は、近所の人でも滅多に通らない。
 私も最近は通っていないが、小学生の頃には仲良しの友人達と、藪の中に秘密基地を作って遊んだ覚えがある。
 秘密基地の入口を通り過ぎ、草や木の枝が張り出して狭くなった道を早足で通り過ぎて行く。
 この遊歩道を抜けると、急に開けた場所へ出た。
 さっきの公園と同様、ベンチ以外に遊具も何もない人気のない小さな広場。
 今朝見かけた男の人も、ここを通ったのだろうか。

 小学校六年生の夏休みには毎日のように来ていたこの広場も、二年以上も間が開くと、初めて来た場所のように思えてしまう。
 私はなぜかドキドキしながら広場の中央に立つと、ぐるりと見回した。
 目的の人が不在の広場は、記憶の中のそれよりも幾分か小さい。
 あの頃の私がそれだけ小さかったという事だが、それにしてもそわそわしてしまって落ち着かない。

「やっぱりいないよね」
 誰もいない静けさが緊張を高め、私は無意識の内に心の呟きを口にしていた。
 私の呟く声が公園内に響き、余計に誰もいない事を意識させられる。
「か、帰ろう!」
 途端に私は怖くなって、くるりと身を返すとわざと大きな声を出して、元来た道を戻ろうと足を踏み出した。
 遊歩道まであと五歩、四歩……
 残り三歩という所で、私は立ち止まった。

 あの人がいた。
 ただし、道の上ではなく……
「うわあ!」
「きゃあ!」
 状況を認識する前に、彼は落ちてきた。……私の目の前に。
 驚きのあまり、私はその場に尻餅をついてしまった。
 目の前で私と同じように尻餅をついて、痛そうに腰をさすっているのは、今朝すれ違い、今私が落し物を届けようとしていた男の人。
 それは良いのだけれど、この人は今、どこから落ちてきた?
 私は上空を見てみたが、そこには建物はおろか、登れそうな木の枝もない。
 風だけが通る事のできる空間がそこにあるだけで、間違っても人が留まっていられる場所は……ない。
 それならこの人は一体どうやって?

「いてて……あ、もしかしてぶつかった? 怪我は? どこか痛い所はない?」
 固まってしまっている私に気付いて、彼が声をかける。
 腰を浮かせて身を乗り出し、その右手を差し出した。
 私はその手と彼の顔を交互に見て、最後にもう一度上を見た。
「あの……」
「い、いやあー! おばけぇーっ!」
「ええっ? ちょ、ちょっと待って!」
 彼の止める声も無視して、私は駆け出した。
 来た時の何倍もの速さで遊歩道を抜けて、公園を飛び出した。


 駆け出した勢いのまま、私は道路を全力疾走して、家に駆け込み玄関に鍵をかけた。
 久しぶりに本気で走ったせいで、なかなか思うように息ができない。
「お帰り……どうしたの、そんなに息を切らして」
 玄関扉に背中を付けて肩を息をする私に、台所から母が出てきて怪訝そうに首を傾げた。
「あ、ただいま。な、何でも、ないよ……ちょっと、暗くて怖かった、だけ」
「あらそう、最近変質者が出るって言うからね。あなたも気を付けなさいよ」
「う、うん」
 心配そうに言う母に私が頷くと、母は「ご飯だから早くしなさい」と言い残して台所に戻って行った。
 それを見届けてから、私は三度深呼吸をして、爆発寸前だった心臓を何とか落ち着かせた。
 それから両開きの扉に振り向き、顔の高さに取り付けられた覗き穴からそっと外を見る。
 暗いから見えにくいが、誰かがいる気配はない。

 良かった、追いかけて来なかったようだ。
 ほっと胸を撫で下ろし、そこでようやく私は呼吸を落ち着ける事が出来た。
 
 それにしても、さっきのあれは一体何だったのだろう。
 何もない所から落ちてきたあの人……もとい、お化けさん。
 いや、お化けと決まった訳ではないのだが、普通の人間は空中から降ってくるなんて事出来ないのだから、この表現でほぼ間違いないはずだ。
「ああもう、ショックー」
 たとえお化けであったとしても、もっと普通に登場して欲しかった。
 そうであれば、もしかしたら運命を感じて、甘い夢を見られたかもしれないのに。
 自分勝手な要求だと知りつつ、まだ未練が残っている事実に、私は盛大に溜息を付いた。

 暫らくはあの公園は通れない。


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