もうすぐ午後六時になろうとしているのに、空はまだ明るい。
私はバスから降りると、朝来た時と同じ道を辿り、誰もいない公園に足を踏み入れた。
鉄棒の影が長く伸びて、足下に滑り込む。
私は細い影の上を綱渡りのようにして渡って行き、少し離れた所に続いている花壇の影に飛び移った。
足元から視線を前に向けると、そこから見る景色が今朝の記憶と重なって見えた。
「そういえば……」
思い出して、スカートのポケットを探って取り出したのは、あの時拾った水晶に似た石。
夕焼けに翳してみると、透明な石は空を歪めて映した。
翳した石はそのままに、私は白く乾いた足元の土を見て、また手元に目を戻す。
この石はここで拾ったのだ。
「返さなくちゃ」
持ち主はきっと、今朝すれ違った男の人に違いない。
ハリネズミ頭と白いTシャツ姿を思い出し、私は知らず頬を染めた。
格好良い人だった。
見た事のない人だったけれど、ラフな格好をしていたから、多分近所の人なのだろう。
しかし、本当に近所に住んでいるのか、それよりも彼は誰なのか。
人探しをするには情報が少なすぎる。その事に今更気付き、私は思わず肩を落とした。
「私ってホント、トロすぎ……」
こんな事なら、今朝遅刻してでも追いかけて届ければ良かった。
遅すぎる後悔を抱きつつ、彼が消えて行った木立の小道に目をやった。
まさかもういないだろうけど……ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。
腕時計を見ると、予定していた時間よりも少し早い。
行ってみようか……。
そう意識に過ぎるのとほとんど同時に、私は歩き出していた。
両脇に葉緑樹が生い茂るこの遊歩道は、近所の人でも滅多に通らない。
私も最近は通っていないが、小学生の頃には仲良しの友人達と、藪の中に秘密基地を作って遊んだ覚えがある。
秘密基地の入口を通り過ぎ、草や木の枝が張り出して狭くなった道を早足で通り過ぎて行く。
この遊歩道を抜けると、急に開けた場所へ出た。
さっきの公園と同様、ベンチ以外に遊具も何もない人気のない小さな広場。
今朝見かけた男の人も、ここを通ったのだろうか。
小学校六年生の夏休みには毎日のように来ていたこの広場も、二年以上も間が開くと、初めて来た場所のように思えてしまう。
私はなぜかドキドキしながら広場の中央に立つと、ぐるりと見回した。
目的の人が不在の広場は、記憶の中のそれよりも幾分か小さい。
あの頃の私がそれだけ小さかったという事だが、それにしてもそわそわしてしまって落ち着かない。
「やっぱりいないよね」
誰もいない静けさが緊張を高め、私は無意識の内に心の呟きを口にしていた。
私の呟く声が公園内に響き、余計に誰もいない事を意識させられる。
「か、帰ろう!」
途端に私は怖くなって、くるりと身を返すとわざと大きな声を出して、元来た道を戻ろうと足を踏み出した。
遊歩道まであと五歩、四歩……
残り三歩という所で、私は立ち止まった。
あの人がいた。
ただし、道の上ではなく……
「うわあ!」
「きゃあ!」
状況を認識する前に、彼は落ちてきた。……私の目の前に。
驚きのあまり、私はその場に尻餅をついてしまった。
目の前で私と同じように尻餅をついて、痛そうに腰をさすっているのは、今朝すれ違い、今私が落し物を届けようとしていた男の人。
それは良いのだけれど、この人は今、どこから落ちてきた?
私は上空を見てみたが、そこには建物はおろか、登れそうな木の枝もない。
風だけが通る事のできる空間がそこにあるだけで、間違っても人が留まっていられる場所は……ない。
それならこの人は一体どうやって?
「いてて……あ、もしかしてぶつかった? 怪我は? どこか痛い所はない?」
固まってしまっている私に気付いて、彼が声をかける。
腰を浮かせて身を乗り出し、その右手を差し出した。
私はその手と彼の顔を交互に見て、最後にもう一度上を見た。
「あの……」
「い、いやあー! おばけぇーっ!」
「ええっ? ちょ、ちょっと待って!」
彼の止める声も無視して、私は駆け出した。
来た時の何倍もの速さで遊歩道を抜けて、公園を飛び出した。
駆け出した勢いのまま、私は道路を全力疾走して、家に駆け込み玄関に鍵をかけた。
久しぶりに本気で走ったせいで、なかなか思うように息ができない。
「お帰り……どうしたの、そんなに息を切らして」
玄関扉に背中を付けて肩を息をする私に、台所から母が出てきて怪訝そうに首を傾げた。
「あ、ただいま。な、何でも、ないよ……ちょっと、暗くて怖かった、だけ」
「あらそう、最近変質者が出るって言うからね。あなたも気を付けなさいよ」
「う、うん」
心配そうに言う母に私が頷くと、母は「ご飯だから早くしなさい」と言い残して台所に戻って行った。
それを見届けてから、私は三度深呼吸をして、爆発寸前だった心臓を何とか落ち着かせた。
それから両開きの扉に振り向き、顔の高さに取り付けられた覗き穴からそっと外を見る。
暗いから見えにくいが、誰かがいる気配はない。
良かった、追いかけて来なかったようだ。
ほっと胸を撫で下ろし、そこでようやく私は呼吸を落ち着ける事が出来た。
それにしても、さっきのあれは一体何だったのだろう。
何もない所から落ちてきたあの人……もとい、お化けさん。
いや、お化けと決まった訳ではないのだが、普通の人間は空中から降ってくるなんて事出来ないのだから、この表現でほぼ間違いないはずだ。
「ああもう、ショックー」
たとえお化けであったとしても、もっと普通に登場して欲しかった。
そうであれば、もしかしたら運命を感じて、甘い夢を見られたかもしれないのに。
自分勝手な要求だと知りつつ、まだ未練が残っている事実に、私は盛大に溜息を付いた。
暫らくはあの公園は通れない。