恋風 ‐こいかぜ‐

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第3話 飛ぶと浮くの違い



 勉強道具を詰めた鞄を持って、玄関に揃えられた自分の靴に足を滑り込ませると、私は後ろに立っている母に振り向いた。
「それじゃあ、行って来ます」
「行ってらっしゃい、気を付けるのよ」
「はい」
 少し躊躇いながらもドアノブを捻り、扉を開けた。
 空は今日もよく晴れていて、暑くなりそうな気配を醸し出している。

 今はまだひんやりとした空気が残っているが、これからどんどん暑さを増していくのだろう。
 本格的に暑くなる前にバスに乗ってしまおう。そう考えて、私はいつもと同じ道を行こうとした。
 しかし、すぐに足を止めて手前の曲がり角を見詰める。
「どこを通って行こう……」
 一番の近道である公園は、昨日あんなものを見てしまったから、とても通りたいと思えない。
 鞄の持ち手を握り締め、暫し考える。
 別の道を通って行くにしても、公園を経由する以外の道を私は知らない。
 気持ち、昨日より少し早めに家を出たは良いが、充分な時間がある訳でもない。
 さてこれからどうするか……。

 一人考え込んだその結果、気が付くと結局いつもと同じ時間になっていた。
 これでは、どの道を迷わずに行ったとしても、絶対に間に合わない。
「私の馬鹿っ!」
 私は自分の馬鹿さ加減に悪態をつきながら、泣く泣くいつもと同じ道を行く事にした。

 一つ目の角を曲がり、信号のない横断歩道を駆け足で渡る。
 そこから細い路地に入って道なりに進むと、あの公園が見えてきた。
 所々塗装が禿げた黄色い車止めを見止め、私は知らず唾を飲んだ。

 今は朝。夕方だった昨日とは状況が違う。
 お化けは普通夜に出てくるものだから、今の時間帯はきっと大丈夫。
 震えてしまう手足を何とか落ち着けようと、私は必死に言い聞かせた。
 公園の入口に立ち、頭だけを中に入れてそっと園内を見回す。……誰もいない。
 念のためにもう一度見回して、本当に誰もいない事を確認すると、私はほっと息を吐いて公園の敷地に入り込んだ。
「良かった」
「良かったって何が?」
 しかし、私の呟きは即座に訂正せざるを得なかった。
 すっかり忘れていたのだ。 昨日、あのお化けがどこから出て来たのか。
 誰もいないはずの公園。だが今、私に語りかける声がはっきりと聞こえた。
 恐る恐る、声のする方――頭上を見上げると、そこにはあの、ハリネズミ頭の男の人が胡坐をかいていた。
 ……宙に浮きながら。

「で、た……」
「ん? 何が出たって?」
 地面に降り立つと、私の顔を覗き込んで首を傾げた。
 ち、近い近い!
 鼻先二十センチほどまで近付いた彼の顔に戸惑い、条件反射で一歩下がろうとした私だが、背中に何かがぶつかって動きを止めた。
 首だけ後ろを向けてみるが、車止めはもう一歩下がった辺りにあるし、それ以前に何も見えない。
 しかし、明らかに何か……壁のようなものがある。手で触れてみるとその感覚は確かで、ガラスとも違う、透明な膜のようなものが張られているようだった。

「何、これ……?」
「結界だよ。昨日みたいに逃げられても困るから」
 そう言うと、彼はぐっと顔を近付けて私の顔をじーっと見詰めた。
「な、何ですか?」
『結界』とかいう壁に阻まれて後ずさりできない私は、首をすくめて彼との間を広げようとした。が、無駄だった。
 どうしようどうしようと胸の中で連呼する私に構わず、彼は少し難しい顔をした。
「君さ、見たよね?」
「何を、ですか?」
「俺が……飛んでる所」
「そそそそんなのっ、みみみてないですよっ!」
「嘘だね」
「う……嘘じゃないです」
 まさか本人の口から聞かされると思わなかった。
 私は咄嗟に「見てない」と言ってしまったが、実際に今さっき、宙に浮いている彼とばっちり目が合ったばかりだ。そんな誤魔化しは効かない。

「わ、私が見たのは……飛んでる所じゃなくて、浮いている所です!」
「…………」
 苦し紛れに訂正をする。
 彼は一瞬拍子抜けしたような顔をして、すぐに眉と頬をひくひくさせた。怒らせた……?
 途端に、不安と恐怖に駆られたのも束の間。
「ぷっ……はははははは!」
「……はへ?」
 彼の予想もしなかった大笑いによって、私の中で生まれ始めていた不安な気持ちは吹き飛んでいた。
「確かにそーだ。君、なかなか面白い事言うね」
「あ、あの……」
「まあ、どっちにしろ、見た事には変わりないんだけど……ね」

 最後の「ね」でスッと笑みを消して、彼は再び私の目を覗き込む。
 私は心で「ひっ」と叫び、脱出口を探そうと視線を散らしたが、あえなく阻止される事となる。
 逃げ道はいつの間にか彼の腕によって塞がれていて、私は見えない壁際に追い込まれるような形になっていた。
「頼みがあるんだ」
 パニックに陥りかけている私を引き戻したのは、彼の落ち着いた声だった。
 半泣きになりながらも見上げると、彼は真面目な顔をしてこちらを見詰めていた。
「ごめん、そんな顔しないで。怖いような事は何もしない」
「でででも、わた、私……」
 明らかに、見てはいけないものを見てしまったのだ。
 今目の前にいる彼は……お化けなどではない。
 透けていないし、私を囲んでいる腕や胴体からは暖かさを感じる。そして何より、近すぎるほど近付いた彼の口からは、吐息が漏れている。

 生身の人間が宙に浮く。これが、どれほどありえない事か。
 こんな事が誰かに知られたら、超常現象として全国……いや、世界中に報じられて、この公園も静かなままではいられないだろう。そして、彼も……。
「わ、私、誰にもいわ、言わな……」
 だから許して。そう続けようとした私の唇に、彼の長い指がそっと当てられる。
「帰りにまた、ここへ来て」
「え……?」
 唇の指が、私の手元に降りて、腕時計を指す。促されるままに時間を見ると、針は昨日と同じ時刻を指していた。

「あっ、バス!」
 彼の肩越しに公園の外を見るが、バスが来ているかどうかは分からない。
「大丈夫、まだ来てないよ」
 打って変わって明るい声で言って、彼は『結界』を解いて私を解放する。
 それからまだ戸惑いを拭えないでいる私の背中に手を添えると、そっと押した。私はその手に与えられた勢いに乗せて駆け出し、公園を出る手前で振り返った。
「また後で!」
 笑顔で手を振る彼に、私もなぜか自然と笑みが零れ、「はい!」と元気いっぱいに手を振り返した。


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