風が止み、細めていた目を開くと、ちょうど彼手が私に伸びてきている所だった。
乱れた髪を遠慮がちに撫でられ、私は照れ臭さから思わず俯いてしまった。
「どうも……すごい風でしたね」
「あー、うん。すごいけど……ちょっとは遠慮して欲しかったかな」
私の髪をすく手を止め、彼は後ろを向いた。肩越しに向こうを除くと、ひょろりと背の高い男性が、じっとこちらを見ていた。
「み、見られ……」
今のやり取りを見られた。
背筋が寒くなる感覚を覚え、またパニックに陥りそうになったが、手首を握る手に僅かに力が込められたお陰で何とか取り乱さずに済んだ。
「大丈夫、俺の兄ちゃんだから」
優しい口調で彼が言う。
「……お兄さん?」
それによって落ち着きを取り戻した私は、目の前に立っている男性を改めて視界の中心に据えて観察した。
言われて見ると、顎や鼻の形や、髪の毛の硬そうな所が似ているかもしれない。身長差が結構あるから、歳はそれなりに離れているのだろう。
「彼女が、昨日お前が話していた……?」
「そうだよ。……兄ちゃん、いい加減仏頂面止めなよ。また怖がられるよ」
呆れたような口調で弟が言う。
彼の言うとおり、兄は無表情と言っても差し障りがないほど、顔面の筋肉が働いていない。
「……そうか?」
兄も無表情を気にしているようで、頬に手を当てて首を傾げる。その仕草が、どことなく可愛い印象を与えて、怖そうなイメージを半減させた。
見た目ほど怖い人ではなさそうだ。
内心ホッとして息を吐いた私に、兄は二、三歩歩み寄ると軽く首を傾けた。
「名前」
「は、はい?」
溜息を吐いた事が面白くなかっただろうか……もしかして、怒らせた?
怒られる事を覚悟して身を縮ませたが、彼が呟いた声に怒りや苛立ちの色は全く見えなかった。
「兄ちゃん……」
「ん?」
弟は勇敢にも盛大な溜息を吐き、先程より深く首を傾げた兄に人差し指を突き付ける。
「『人に名前を聞く時はまず自分から』って、いつも言われてるじゃないか」
「……まだ名乗ってなかったか?」
「……いよいよ本格的にボケたか?」
自分の兄相手に、何という発言をするのだろう、この人は。
恐る恐る兄の方を見てみるが、怒り出す気配もなく、ボーっとした顔をしている。
「ゴメンな、兄ちゃん天然なんだ。しかも極度の」
「はあ……」
天然ボケな兄を持つと、弟はこうなるのか。
私は自分の兄と、この兄弟を比べて途方もない気分に浸った。
私の兄はしっかりしている。頭脳明晰、スポーツ万能。ついでに家事も大体できて、しかも優しいという完璧さ。
家族からも信頼されていて、私は……少なくとも、今目の前にいるハリネズミ頭の彼よりは、兄を尊敬していると思う。
「ったく……って、そう言う俺も、まだ名乗ってなかったな」
暫らくぶつぶつ言っていた弟だが、ぱっと表情を変えて私に笑顔を向けた。
「俺は、風見正悟って言うんだ。ホラ、兄ちゃんも」
「……風見大悟」
弟に小突かれて、兄は少し間を置いてからボソッと名前を呟いた。
正悟……君は、兄の態度にいまいち良い顔をしなかったが、すぐにニコッと笑って私に目を戻した。
無言だったけれど、私にも自己紹介を求められている事が分かった。
「私は……」
一瞬、名乗って良いものか迷った。相手は知らない男の人で、空中に浮く事ができる超人。
ニコニコと人の良い笑顔を浮かべているけれど、実はアヤシイ組織の一員だったりする可能性も捨て切れない。
私は一度、正悟君と大悟さんを交互に見て、すぐに視線を足元に落とした。
二人とも、こちらをじっと見詰めて、私が名乗るのを待っている。
爪先を見詰めて十秒数える。
そして、私は意を決して顔を上げた。表情は勿論、満面の笑み……のつもり。
少し頬が引き攣った気がしたが、多分気付かれていないハズ。
「橘、麻美です」
「橘さんか」
「麻美で良いです」
嬉しそうに口元を微笑ませた正悟君に、私は「あっ」と言って訂正を願い出る。
「麻美?」
「はい」
頷いた私は、今度はちゃんと笑えただろうか。
少し心配になった私だが、正悟君と、初めて見た大悟さんの優しい笑みを見たら、そんな心配はすっかり吹き飛んでしまった。