恋風 ‐こいかぜ‐

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第8話 お兄ちゃん


 まったくもって訳が分からないまま、私は空飛ぶ謎の生物に乗せられて家路に着いた。
 半ば放心状態の私を落ちないように支えながら、大悟さんは無言で白い動物を操っている。

 背中に乗っているから全体は見えないが、首と背中を見た限りでは馬のようだ。
 しかし、普段テレビなどでよく見かけるサラブレッドとは、耳の形が少し違う。サラブレッドの耳はピンと立っているのが普通のようだが、この動物の耳は少し垂れていて柔らかそうだ。
 腕をくすぐる鬣も絹糸を連想させる柔らかさで、これに顔を埋めたら気持ち良いに違いないと思って、私はそっと鬣を撫でた。
「綺麗な色ですね」
 手で触れてみて初めて気付いたが、この動物の体毛は白ではなかった。ふんわりと積もった雪の断面にも似た、薄い青。
 いつだったか友人達と訪れた、雪深い田舎町で見た光景を思い出し、私は懐かしさから思わず目を細めた。

「珍しい動物ですね。何て言う動物なんですか?」
 動物の背を撫でている内に落ち着きを取り戻した私は、大悟さんに振り向いて訊ねた。
 彼は相変わらずの無表情でたずなを握っていたが、問いに答える時には、きちんと私の顔を見て答えてくれた。
「風馬」
「ふうま?」
「風に馬と書いて風馬」
 音と字を合わせてみたが、やはり覚えのない動物だ。新種の生き物だろうか。
 それを聞こうと振り向くと、今度は大悟さんが先に口を開いた。
「明日も今日と同じ時間に来れるか?」
「明日ですか? はい、特に用事もありませんし」
 さっきチェックした手帳の中身を思い出して答えると、大悟さんは「そうか」と言ってまた黙ってしまった。
 それからは、風馬の事を聞こうと思ってもなかなか言い出し難くて、結局何も言葉を交わさないまま家の上空まで来てしまった。

「ありがとうございました」
 地上に着くと、大悟さんの手を借りて風馬の背中から降りた。
 ぺこりとお辞儀をして頭を上げて、初めてまともに風馬の全体を目にした。以前見たサラブレッドと比べると小柄な風馬は、純粋な瞳で私を不思議そうに見詰めている。
「あなたも、ありがとう」
 お礼の意味も込めて太い首を撫でると、風馬はブルブルと唇を震わせて返事をした。
 その様子を無言で見守っていた大悟さんは、突然「ほう」と呟いた。
 何だろうと思って、隣に立った大悟さんに顔を向ける。そこでは、顎に手を当てた大悟さんが、面白いものを見るように口を横に引いている所だった。
「……何でしょう?」
 珍しい大悟さんの笑み。その意味が、『風馬と戯れる少女を見て微笑ましく思った』ではあまりに薄い気がして、思わず問いかけた。
「いや……」
 大悟さんは「何でもない」と首を振るが、口元はまだにやついている。
 それが納得できなくて、私は眉を寄せて彼を見上げた。睨んだつもりだったが、果たしてそれは、どれだけ効果があっただろうか……。
 これを境に大悟さんの顔は元に戻ったが、どこか堪えているように見えてならない。

「何でもない。それじゃあ、また明日」
「あっ」
 大悟さんは風馬の背に飛び乗ると、逃げるように夜空へと飛び去った。どんどん小さくなっていく白い背中を見詰め、私はぎゅっと両手を握り締めた。
「もー!」
 別に逃げなくても良いではないか。教えてくれなくても、とぼけていても、黙っていたいならしつこく聞くつもりはないのだから。

「麻美?」
「ひゃっ!」
 大悟さんが飛び去った方を睨み付けながら、ぶちぶちと文句を言っていると、背後から声が聞こえ、私は三センチほど飛び上がった。
「お、お兄ちゃん!」
「悪い、驚かせた」
 慌てて振り向いた先にいたのは、私の五つ年上のお兄ちゃん。
 お兄ちゃんはバイト帰りなのか、バイクのキーを手の中でカチャカチャさせている。
「今帰ってきたの?」
「ん、ああ。麻美こそ、今帰ってきたのか?」
「そうだよ」
 私が何でもない顔で頷くと、お兄ちゃんは少し眉を寄せた。

「遅くないか? もう七時近いぞ」
「え? ……あ、本当だ」
 腕時計を見ると、お兄ちゃんの言う通り、間もなく七時になろうとしている。思えば、あの広場で大分時間を費やしたから、当たり前と言ったら当たり前だが。
「明るいから気付かなかった」
 この季節、夜の七時になっても夕方のように明るいから、時間の感覚が狂ってしまって困る。
「兄のオレが言うのも何だけど、麻美は可愛いんだから、気を付けなきゃ駄目だぞ」
「やだなあ、私そんなに可愛くないよ」
 顔の前に人差し指をピッと立てて忠告するお兄ちゃんに、私はへらへらと笑って言った。
「可愛いっていうのは、星来ちゃんや華ちゃんみたいな人の事を言うの」
 学校で可愛いと評判の友人二人の名前を挙げた私に、お兄ちゃんはなおも険しい顔付きで指を突き付ける。

「あの二人も勿論可愛い。けど、兄ちゃんはお前の事を心配しているんだ」
 そして、お兄ちゃんは「分かったか」と強い口調で私に問いかけた。
「う、うん」
「よし」
 お兄ちゃんの気迫に押されて頷くと、お兄ちゃんは満足そうに口の端を上げて私の背中に掌を置いた。軽く押されて「家に入ろう」と促されている事が分かる。
 お兄ちゃんに押されるままに、私は玄関のドアノブに手をかけて扉を開く。
「ただいまー」
 兄妹揃って声を上げれば、家の奥からお母さんの「お帰りなさい」と言う声と足音が聞こえてきた。


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