恋風 ‐こいかぜ‐

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第9話 溜息の理由


 家に入ると既にご飯ができていて、お父さんも帰宅していた。
 私とお兄ちゃんは、お父さんとお母さんに「ただいま」を言うとすぐに夕飯を食べて、食べ終わるとすぐに自分の部屋に引っ込んだ。

 満腹だった私はすぐに机に向かう気もせず、部屋に入ると明りも付けずに、ベッドに腰を降ろした。勢いが付いていたせいで、ベッドのスプリングで身体が弾む。
 揺れが治まるのを待ちながら、私は今日の事を思い出していた。

 朝までお化けだと思っていた人が、実は超人で、超人だと思っていた人が、実は風使いだった。その風使いという肩書きにも『半人前』が付くのだが。
 普通なら知りえなかった事を知り、見るはずのなかったものを見た。
 ほんの数時間の間に起こったにしては、あまりに濃い出来事に、夢でも見ていたような気分になる。
 そうだ、それなら全てに納得がいく。
 宙に浮かぶ人間、風を操る兄弟、空を飛ぶ謎の生物……こんなものは、空想上の出来事に過ぎないのだ。
 しかしそれなら……

 私は考えを中断して、床に置いた鞄の中から小さく丸めたハンカチを取り出した。
 緑のクローバー柄のハンカチを開けば、中から角ばった透明な物体が現れる。
 それを人差し指と親指で摘んで目の高さに持ち上げると、それは暗い部屋をぐるりと歪めて見せた。
 ガラスを加工したものなのか、水晶なのか見分けは付かないが、純粋でとても美しいそれは私の心をぐっと惹き付けた。
「返そうと思ったのに」
 今朝、バスに乗った時点で思い出して、今日の帰りに渡そうと思ったにもかかわらず忘れてしまった。
「明日こそ渡そう」
 大悟さんや正悟君は、「また明日」と言っていた。だから、明日も今日と同じ時間に公園に行けば、また会えるはず。
 その後いつ会えるかも分からないのだ。返せる時に返しておかないと、後で取り返しの付かないことになるかもしれない。
 水晶のようなそれをぎゅっと握り締め、私は仰向けに転がった。

 不思議。こうしているだけで、胸の中のもやもやが晴れていくような気がする。
 まるで、草原のど真ん中に立って、吹き抜ける風を一身に受けているような……そんな気分だ。
 風が心の中を走り抜け、重い雲を押し退けて押し退けて、その向こうに眩い光まで見えてくる。
 もうすぐ、心の空を覆った分厚い雲が全部取り払われる……。
 青い空を期待したのも束の間、ドアがノックされる音で、私は一気に現実に引き戻された。

「お茶が入ったわよ」
 目を開いて突然現れた暗い天井に目を瞬かせていると、もう一度コンコンとドアがノックされ、お母さんが私を呼ぶ声がした。
「麻美?」
 今ドアを開けられて、この暗い部屋と寝転がっている姿を見られたら、何を言われるか分からない。
「い、今行く」
「冷めちゃうから早く来なさいよ」
「はーい」
 咄嗟に答えた私の声は少し裏返ってしまったが、幸いお母さんに動揺しているとバレずに済み、私はホッと胸を撫で下ろした。


 次の日の夕方、バスから降りた私は迷わず公園に駆け込んだ。
 右手には昨日何度も「明日返す」と繰り返し唱えた、透明な石のような物を握り締めている。
 昨日は鞄に入れていたから存在すら忘れてしまったが、こうして持っていれば、忘れる事はないはずだ。

 息を弾ませ、意気揚々と緑に覆われた小道に片足を踏み入れると、急に私だけ影に包まれた。
 驚いて立ち止まった私の前に現れたのは、伸びかけた髪を地面に向かって垂れ下がらせている人の顔。
「よっ」
「しょーご君!」
 正悟君は片手を上げて元気に挨拶をすると、逆様になっていた身体を直して私の前に降り立った。
「今日は早いんだね」
「昨日遅くなってお兄ちゃんに怒られちゃったから、頑張って早いバスに乗って来たんだよ」
 両手を胸の前に握り締めて力説して見せれば、彼はあははと笑って硬そうな頭を撫でた。
「ゴメンなー、俺のせいで……」
「え? あ、ううん、正悟君は悪くないよ」
「じゃあ、兄ちゃんのせい」
「そっ、そうじゃなくて!」
 慌ててぶんぶん頭を振る私を前に、正悟君はケラケラと笑い出す。
 そこでようやく、私はからかわれている事に気付き、むっと頬を膨らませた。

「正悟君、酷い」
「ゴメンゴメン。でも、今日はあまり遅くならないようにしないとな」
 ぽんぽんと宥めるように私の頭を優しく叩いて、正悟君は言った。
 家族以外の男の人に触れられるという、慣れない事態にドキドキしている私の胸の内を知ってか知らずか、彼はまだ私の頭の上に手を置いている。
「あ、あの」
「ん?」
 手を、手をどうにかして下さい。
 頭の上にかかる重みのせいで、顔の温度がぐんぐん上がっていくのが分かる。
 きっと赤くなっているだろう顔を伏せて、それでもこの願いを伝えるべく、私は息を吸い込んだ。
「ああそうだ、言い忘れていたけど、今日は兄ちゃん仕事でいないんだ」
「手……え?」
 手を避けて、と開きかけた口は、最終的に疑問を音にした。
 自分の顔が赤い事を忘れて頭を上げると、正悟君が目を真ん丸にしている所に鉢合わせた。

「顔真っ赤。そんなに暑いかな?」
「そ、そうなの! 私、暑がりで……」
 正悟君の言葉に乗って答えたけれど、本当は嘘。
 彼もその事に多分気付いていて、「ふーん?」と意地悪そうに笑っていた。
「そんな事より! ……大悟さんいないの?」
 我ながら、わざとらしい話の逸らし方だ。
 悲しいかな、心の中で自画自賛した私を、正悟君はまだニヤニヤと笑って見ている。

「ああ、いないよ。だから帰りは俺が送って行く……歩きだけど」
「風馬……だっけ? あの子は?」
 すると彼は笑みを引っ込めて、長い人差し指で頬をかいた。
 ぎこちない動きに私が首を傾げると、彼はこちらをちらりと見て、背後に伸びる遊歩道の先に視線をやった。
「風馬……は、ちょっと問題があって」
「問題って?」
 私は更に深く首を傾げる。
 正悟君は私と道の先を交互に見て、最後に深い溜息を吐いた。

 一体、どうしたと言うのだろう……?


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