恋風‐こいかぜ‐

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第15話 夜の一人歩きは気を付けて!



 元気に公園を飛び出したのは良いものの、家に近付くに連れてその足取りは重いものになっていった。
 家に帰る事に不安や不満を感じている訳ではなく、その道程がいまいち好ましくない事に気付いてしまったのだ。
 今は夏で日が長いとはいえ、午後の六時を過ぎると、気味が悪い薄暗さが辺りを包む。
 大きな、人や車の行き交う道なら良い。しかし、私が今歩いているのは……誰もいない、家が立ち並ぶだけの狭い道。
 時折仕事帰りの車が通るが、それにしても静かだ。
「うう、そう言えばショウちゃん、送って行くって言ってくれていたんだっけ……」
 今更ながら思い出し、もう少し落ち着いていれば良かったと、心底後悔した。
「そう言えば、この石も返してない」
 握っていた透明な石は、いつの間にやらポケットの中に戻っていた。
 空を飛んでいる途中に落としてしまっては大変だと、無意識の内にしまっていたのだろう。

 盛大な溜息を吐き、私は足を止めた。すぐそこの空き地に生えた、若い松の木が目に入る。
 細い幹に括り付けられた赤いベニヤ板に、『チカン、変態注意!』と太字ででかでかと書かれていた。それを見た瞬間、私は無意識に身体を震わせた。
 そういえばつい最近、近所の女の子がここで痴漢に会ったと、母が話していたっけ。
 確かその痴漢は刃物を持っていて、女の子を追い掛け回したと言っていた。
 それで……そう、お父さんとお兄ちゃんも、「麻美も気を付けるんだよ」と話していた。
 一昨日は慌てていたし、昨日は大悟さんが一緒だったから気にならなかったけれど……今出て来られたら、私には盾になる物も武器になる物も、何もない。
 その先を考えてしまって、私はその思考を散らすように、ぶんぶんと思い切り頭を振った。
「駄目駄目! 今そんな事考えたら駄目!」
 今、そんな事を考えている場合ではないし、早く帰ればそれで済む事なのだ。そう自分に言い聞かせ、私は顔を上げた。
 ここから家まで、角を二つばかり曲がらないといけない。所要時間は十分ほど。走ればもう少し早く着く事ができる。
 だから、早く行かなければ。

 そう考え、駆け出そうと足を踏み出した時だ。
 前方の曲がり角から、黒い人影が現れた。そのシルエットは男のもので、暗いのに真っ黒なサングラスと、大きなマスクを装着していた。
 相手は私に気付くと、進行方向をこちらに切り替えて、大股で近付いて来た。
 夜闇よりも黒いサングラスの奥にある目と、視線が合ったような気がした。その瞬間、私の背中を冷たいものが掠めていったような感じを覚え、本能的に「まずい」と悟った。
 逃げ出そうと身を翻した私の後を、男が追いかけて来る。
 必死に走る私を嘲笑うかのように足音はどんどん近付いて来て、アスファルトに映った薄い影が、すぐ背後まで男が迫って来ている事を私に教えてくれた。
 しかし、だからと言って私にどうにかできる訳もなく、男は意図も簡単に私の腕を捕まえて、後ろから抱き着いてきた。
「ひっ」
「大人しくしろ」
 声を出そうとした私の喉元に、鈍く光る冷たいもの――サバイバルナイフが突き付けられた。
 それを見たら、私の喉は息を吸う事すら躊躇うようになってしまい、声など出せる状態ではなくなってしまった。

 すぐに大人しくなった私に満足したのか、男は気味の悪い笑いを耳元に投げ付け、空いている手で私の身体をまさぐり始めた。
 太腿、お腹と手を滑らせ、指先が徐々に上に上がってくる。おぞましい感覚に、私はきゅっときつく目を瞑って唇を噛んだ。
 こんな事になるなら、お父さんやお兄ちゃんに迎えに来てもらうんだった。
 遅くなってでも、正悟君に送ってもらったり、大悟さんの帰りを待っていれば良かったんだ。
 今になっては既に遅い後悔が、頭の中を駆け巡る。
 明日、どんな顔して正悟君に会ったら良いだろう。お母さん達には何て言ったら……。
 それよりも、私は今日、帰れるのだろうか?
 次から次へと湧いて来る不安に、私の胸は押し潰されそうだった。
 涙が頬を伝い、剥き出しになっている膝に落ちる。その冷たさによって、これが現実である事を意識させられ、私はますます絶望した。

 その間にも、男の指がやたら遠回りをして、私の胸の膨らみに触れ…………
「うわあ! 何だこれは!」
 なかった。
 その上、男は私の後ろから飛び退き、しきりに何かを叫んでいる。振り向くと、男は太い自分の腕を心配そうに見詰めていた。
 暗くていまいち良く分からなかったが、よく見ると彼の右腕は皮膚がパックリと裂けていて、中には真っ赤な血肉が見える。
 しかし、傷の深さの割に出血はなく、痛みもそれほど感じないようだった。

「汚い手で彼女に触るな。変体野郎」
 ただただ驚く私達の耳に、どちらの物でもない声が聞こえてきた。
 キョロキョロと見回す男だが、私はすぐに声の主を見つける事ができた。正悟君だ。
 電信柱の上に立っている彼は、私が気付いた事を知ると、風に乗せて「大丈夫?」と言葉を送ってくれた。
 私は無事だという意味を込めて頷くと、正悟君は安心したように肩を上下させた。
 それから一度風に紛れて姿を晦ませると、次の瞬間には男から私を隠すようにして立っていて、腕組みをして相手を睨み付けているようだった。
 私には正悟君の背中しか見えなかったが、相手の男の表情を見ると、大分怯えているようだったので、恐らくそうなのだろうと解釈した。

 身長は兄の大悟さんに比べたら低くて、十五歳の少年としては標準的な体格である正悟君は、普段なら迫力に欠けるだろう。
 しかし、今の彼は『風使い』としての風見正悟だ。半人前であっても、風を従える者としての威厳を、後姿であってもひしひしと感じられる。
 これを真正面から見たら、どんな感じがするのだろう。きっと、その迫力に潰されてしまうに違いない。
 そう思って正悟君の向こうにいる男を覗き見ると、彼はサングラスとマスクに覆われた顔を真っ青にして固まってしまっている。
 ……きっと、正悟君は今までにないくらい怖い顔をしているに違いない。

 そっと正悟君の横顔を盗み見る。
 思った通りだ。その表情は、私が今まで見たことがない――怒りの色をたっぷりと含んでいる。
 彼はスッと音もなく息を吸うと一旦息を止め、動けなくなっている男を冷たく睨み付けた。
「失せろ」
「ヒッ!」
 このままここにいれば、自分の身に危険が及ぶ。
 その事を感じ取ったのだろうか。男は情けない悲鳴を上げて、一目散に逃げて行った。
 男の逃げ足の、早い事早い事。五秒も待たない内に、男は私達の視界から姿を消してしまった。

「無事か?」
 男がいなくなるのを見届けて、正悟君は私に振り向いた。
 肩を掴まれたけれど、あの男に触られた時のように嫌な感じは全くしない。
 私、助かったんだ……。
 暖かい正悟君の手に触れられて、私の胸にようやくその実感が訪れる。
 それと同時に、目元が急に熱くなって、一度は止まっていた涙がまた零れ出した。

「こ、怖かったよぉ!」
 ピンと張り詰めていた緊張の糸が切れて、堪えてた感情が一気に溢れ出る。
 泣き出してしまった私を、正悟君は困ったように見詰めていたが、その後ややあって、肩に置いていた手を背中に回し、やんわりと抱き締めた。
「もう、大丈夫だから……」
 そう言って、ぎこちなく背中を擦る正悟君の手から優しさが伝わってきて、胸に染み渡る。
 すっかり安心した私は、彼の背中に手を回し弱く力を込めた。それに応えるように、正悟君も私を抱く手に力を込める。

 それから私の涙が止まるまで、彼はずっとこうして、私を抱き締めてくれていた。


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