もう、どれくらいの時間が経っただろうか。日は完全に落ち、空は深い青に染まりつつある。
「落ち着いた?」
「……うん、ありがとう」
ずっと背中にあった手が解かれ、剥き出しの腕を優しい夜風が掠めていく。
私は正悟君の顔を見上げると、もう一度改めてお礼を言った。そうすると、彼は少しばかり照れ臭そうに微笑んで、「無事で何よりだよ」と言ってくれた。
「それにしても、麻美って意外と落ち着きがないんだな」
ろくに挨拶もせずに帰ってしまうなんて、と呆れ顔の正悟君。私はその時の事を思い出して、赤面してしまった。
「それは……ちょっと、は、恥ずかしくて」
「恥ずかしい? どうして?」
「だ、だって……だ、抱っこしたり、してたから」
あの時私は、空を飛んだり正悟君との密着度が高かったりして、テンションが可笑しくなっていたのだ。きっと。
それであんな、いつもなら決してやらないような……落ち着きのない行動を取ってしまってに違いない。そうだ、そうに決まっている。
ぽつぽつと呟くような喋り方――よく耳を澄まさないと聞こえなかったろう。私の声は。
それでも、正悟君の顔が見る見る赤くなっていく様子を見て、彼の耳の前ではこちらの音量は関係ない事が判った。
真っ赤だ。茹蛸のように。暗い所でもはっきり判るくらいに、彼は赤面している。……本当に今更ながら。
「そ、そういえば……そんな事もあった気が…………」
「気がする、じゃなくて、あったよ!」
ぷう、とフグのように顔を膨らませた私に、きっと普段ならからかいの笑みを浮かべる正悟君だが、今はただ赤面して「そうだね」と呟くばかり。
「何だか今日は、ずっと抱き付かれてた気がするよ」
「う、ごめん」
「別に怒ってる訳じゃないから、もう良いよ。驚いただけだもん」
心臓は一年分くらい酷使したと思うけれど。その事は胸にしまっておこう。うん。
お互いに何とか落ち着いてきた頃、正悟君が「送って行くよ」とまだ赤い顔で申し出てくれた。
さっきのような事は、何があってもご免被りたいので、彼の言葉に甘えて二人並んで歩き出す。
あの男が出てきた角を曲がろうとした時、私はふと、正悟君が現れた時の事を思い出した。
「何だか意外だったなあ」
「何が?」
それまで気まずそうに黙って俯いていた正悟君が、ようやく顔をこちらに向ける。
私は彼に微笑を返すと、前方と足元に注意を戻して、少ししてから話し始めた。
「正悟君があんな、殺気剥き出しのオーラを纏うとは夢にも思わなかったよ」
相手の人も怯えてたよ、と冗談っぽく笑うと、正悟君はやはり気まずそうに頬を指で掻いて、明後日の方向に視線を泳がせた。
「そんな怖い顔してた?」
「うん、私は横顔しか見えなかったけど、それでも充分怖かった」
にこーっと笑った私に、彼はうーんと小さく唸って口元を歪ませた。
「やっぱり周りの影響なのかな」
「影響って?」
諦めたような溜息を吐き、カクッと肩を落とした正悟君。その横顔を覗き込み、私は首を傾けた。
「俺の幼馴染とか、兄ちゃんの幼馴染とか……俺の周りの人間って、何かある度に殺気を放つ奴がやたら多いんだよなあ。
一見穏やかそうなんだけど、実は怒らせるとかなり怖いんだ。か……刃物持ち出したり、『呪うぞ』とか『毒盛るわよ』とか言って脅してみたり……。
その上、社会的地位も何気に高いから、下手な事すると……とんでもない事になる。実際になった人も何人かいるようだし」
え、何? 『呪うぞ』? 『毒盛るわよ』? というか、は、刃物って……。
単に、怒らせると怖い人がいるんだろうな、としか考えていなかった私は、想像以上の事に言葉を失った。
しかも、社会的地位が高くて……って、そういう事が本当にあるんだと、少しずれた所に感心してしまったりと、この事実は私の思考に予想もしなかった打撃を与えた。
「あ、誤解しないでくれよ。普段は皆、面倒見が良くて、すごい人達なんだ!」
「そ、そうなんだ」
今更そんな慌てた顔をしてフォローされても、この印象を塗り替えるなんて事は、多分無理。
挑戦する前に既に拒否状態に入っている私に感付いたのか、正悟君は必死にあれこれと「すごい」理由を挙げた。
「信じてないな? 本当だって! 学校や町の人達からはものすごい信頼されてるし、生徒会役員だし、成績だって上位に名を連ねるくらいだし。
えーと、それから、女の子なんだけど、すごい食うしっ……てこれは違うか。こんな事言ったって知れたら、俺が危ないから、もし会う事があってもこの事は内緒な!
えーと、それから……あ! それに皆、あの! 兄ちゃんと普通の会話ができるんだぜ!」
言い切った様子の正悟君。途中違う物も入った気がするけれど、その努力を称えて気にしない事にした。
「大悟さんと普通に? それって、すごいかも」
「だろ?」
数ある情報の中から、素直にすごいと思った事を感想として述べる。
正悟君は、ケケケと悪戯小僧の如く笑った後、思い出したように「兄ちゃんには内緒な」と人差し指を口の前に立てた。
確かに、あの大悟さんと常に臆せず普通に接する事ができる人がいたとしたら、それはとてもすごい。尊敬に値するかもしれない。
「何だかちょっとだけ、会ってみたくなってきたかも」
「よしじゃあ、その内俺が会わせてやるよ」
「本当に?」
思いも寄らない彼の言葉に、私は本気で驚いた。
「本当だよ。俺が入学したら……きっと」
まるで自分自身に誓いを立てるかのような……意志の強い眼差しを、ほんの一瞬だが垣間見た気がした。
次に私の方を向いた彼の表情は、すっかり元に戻っていたから、その真偽は分からないのだけれど。
「一緒に、頑張ろうね。ショウちゃん」
「ありがとう、麻美」
不意に足を止めた私達の目前に、目的地が近付いていた事に気付いたのは、それから数分後の事。