「ちょ、麻美! これってー!」
慌てて叫んだが、時既に遅し。
麻美はとっくに見えない所まで行ってしまい、恐らく声も届いていない。
俺は納得がいかず追いかけようとしたが、それは兄ちゃんの手によって阻止される事となった。
「……やれ」
「だってさ、兄ちゃん」
「やれと言ったらやれ」
「……ハイ」
麻美がいた時は、もう少し温かみを感じられたのに、俺しかいなくなると急に冷たくなるんだよなあ。
……まあ、それも仕方のない事なのだろうけれど。
風見大悟は俺の兄であり、同時に同じ師匠を持つ兄弟子でもある。
今の俺よりも若い、十二歳の時に一人前の昇格試験に合格。それ以降、その優秀さを買われて、師匠から俺の教育を仰せ付かった。
俺にとっては、それが地獄の始まりだった。
その頃、五歳になったばかりの俺を、兄ちゃんはビシバシ鍛え始めた。飴と鞭の、鞭の方を主に使って。
優しかった師匠や両親達と違って、兄ちゃんは俺に甘える事を許さなかった。
初歩的な間違いをすれば怒鳴り付けるし、できない事を途中で投げ出したりすれば、例え俺が幼くても平気で殴り付けた。
普段は無口で存在感も薄い兄ちゃんだが、一度暴れ出すと止めるのはなかなか難しい。
大人しい人を怒らせると怖いとよく言うが、兄ちゃんはそれをそのまま形にしたような人なのだ。
幼い頃から嫌と言うほど刻み付けられた、日々の記憶……。
俺に兄ちゃんに逆らえと言う方が無理なのだ。
逆らう素振りを見せようものなら、拳が飛んでくる。いや、拳で済んだならマシな方で、酷い時は殺傷力の高い術を使ってくる時もある。
ついこの間、新しく習得したという技を受けた時は、本気で死ぬかと思ったな……。
「がっ!」
そんな事を考えていたら、突然脳天に衝撃が訪れた。
頭を抱えて悶えている俺を心配する様子は露ほどもなく、兄ちゃんは右手を握ったまま涼しい顔をしてこちらを見下ろしている。
「何をぼんやりしている」
「だからって殴る事はないだろ!」
「お前が悪い」
「…………」
確かにそうだけどさ……。あーちくしょー、滅茶苦茶痛いぜ。
瞳に涙が溜まっているのが分かる。いつも兄ちゃんやその周りの人達は、「男なんだから泣くな」と言うけれど、こういう場合は仕方ないよな。うん。
何度拳骨をもらっても、一向に慣れる気配はない。いや、慣れたら危険か?
復活には程遠い頭を手で保護しながら見上げると、兄ちゃんはいつの間に取り上げたのか、麻美が置いて行った『宿題』を眺めていた。
そうだ、この事態のそもそもの原因は、この『宿題』だったのだ。兄ちゃんの怖さと頭の痛さのお陰で、すっかり忘れていた。
麻美も厄介な物を持ってきてくれたよな、と内心溜息を吐きつつ立ち上がり、俺は兄ちゃんの隣に並んで白い紙切れを覗き込んだ。
そこにはこうあった。
『風馬と仲良くなろう!
Lv.1 ごはんをあげてみよう!
風馬の好きな物を、手から直接与えてみてね。
好きな物と、好きな物を与えてくれる人が結び付いて、好きな人に変わるかも?
Lv.2「君が好きだ!」と伝えてみよう!
正悟君だって、「好き!」と言われて嫌な気はしないよね?
風馬もきっと同じだよ。素直な気持ちで接してみよう!
Lv.3 口で言ってダメなら、念を送ってみよう!
あ、笑っちゃ嫌だよ? 念じるって意外と大事なんだから!
とにかく優しい心を忘れないでね。それが一番大切だよ。
この3つを、私が帰って来るまでにやってみてね。
応援してるよ。頑張ってね!』
女の子らしい綺麗な文字で書き連ねられた、三つの課題。一生懸命考えてくれたらしい事が、紙の上であっても感じられる。
「やらない訳にはいかないんだろうな……」
「当然だ。橘さんの善意を無駄にするな」
溜息を吐いた俺の後頭部を、兄ちゃんが軽く小突く。
「今日は明るい内に帰って来れるから、それまでサボるんじゃないぞ」
「分かってるよ」
励ますような手の動きに、何となく照れ臭くなって顔を背ける。そんな俺を、兄ちゃんはもう一度、今度は強めに小突いた。
「だっ!」
「その態度、どうにかしろ」
もう子供じゃないんだ、と視線に込めて呆れたように息を吐く兄ちゃんは、既に俺の隣にはいなかった。
いつの間に飛び上がったのか、俺の遥か頭上で静止している。
「……気を付けるよ」
予想外にぶすっとした声になってしまって内心少し慌てたが、兄ちゃんは眉をひそめただけで、それ以上何もしてこない。
心底ホッとしている俺に一瞥をくれると、兄ちゃんは静かに風を起こし始める。
「まあ良い。行って来る」
そして一言告げたと思うと、急に風力を強めてその中に消えて行った。
一人残された俺は、手にした紙に目をやった。
「……やるしかないか」
誰にともなく呟いた声は、吹き抜けた風に攫われて消えて行った。