夕方、昨日とほぼ同じ時間に公園に行ってみると、正悟君は一人で宙に浮いていた。
仰向けに寝転んだままで、ふよふよと一箇所に留まる事なく空中を漂うなんて何と器用なんだと思いつつ、私は彼に向かって手を振る。
しかしそれだけでは気付かないらしく、今度は近付いて声をかけてみた。
「しょう君、ただいま」
「え? うわ!」
私の身長よりも高い所を漂っていた正悟君は、私の存在に気付くと集中力が途切れたのか、そのまま落下した。
ドスン、と派手な音を立てた着地で身体を打ったのだろう。彼は数分悶絶していた。
「大丈夫?」
「う、何とか……」
呻きが混じったその言葉に苦笑しつつ、彼の背中に手を添えて、起き上がるのを手伝った。
「ありがとう」
打った背中がまだ痛むのか、掌を後ろに回して擦る姿が、厭に年寄り臭い。
「あはは、しょう君おじいさんみたいだよ」
「え? ……麻美はいつ来たんだ?」
何とまあ、わざとらしい話の逸らし方。きっと、思い返して自分でもジジ臭いと思ったのだろう。
私はそこには敢えて突っ込まなかったが、笑みは隠す事ができずに、正悟君に不服そうな顔をされてしまった。
「私は今来たばかり。約束通り、美味しい物買って来たよ」
そう言って、鞄とは別に持った紙の箱を正悟君の目の前にぶら下げた。
彼はそれを見た途端、表情を曇らせて視線を下にずらす。
「あの、さ。宿題、なんだけど」
「あ、どうだった? ずっと気になってたんだー」
地べたに膝を着いたまま、箱を抱えて笑いかけると、正悟君はますます浮かない顔つきになった。
どこか、私の顔色を窺うような眼差し。もしかして……
「上手くいかなかった?」
そっと笑みをしまって訊ねてみると、彼はたっぷり間を置いた後、躊躇いがちに頷いた。
「そっかー、それじゃあ残念だったね」
「呆れた?」
何だか病気の宣告を受けるような顔付きの彼に、私は思わず噴出しそうになった。
彼が患者だとしたら、「先生、俺、やっぱり死ぬんですか?」とでも言いそうな……。
実際はそれほど重大な病気でもないのに、わざわざ自分で事を大きくして、勝手に不安になっているのだ。
「どうして呆れなくちゃいけないの?」
腹の底では笑いたくて仕方がないのだが、そこはぐっと堪えて訊き返す。
そうすると、正悟君は「え」と言って視線を泳がせた。どうやら、私の返事は、彼の中では想定していなかったようだ。
「えーと」とか「それは」と、意味のない言葉を繰り返している。
そこで私は、完全に困り果てている正悟君に近付いて座り直し、彼の顔を覗き込んだ。
すると、それまで所在無く彷徨っていた彼の視線が、私の顔に焦点を合わせて静止した。
「今までできなかった事を、できるようになるのは大変な事だよ。……それともしょう君、やらなかったの?」
「やらない訳がないじゃないか! 折角、麻美が持って来てくれたのに……」
「何だ、それなら何も問題ないよ。良かった、やってなかったらご褒美も無駄になっちゃう所だったよ」
私はほっと息を吐き、膝に置いた白い箱をそっと撫でる。正悟君もそれをじっと見詰め、そのまま私の顔へと目を移した。
瞬間、顔の近さにぎょっとした。
正悟君はさっき落ちた時のまま、半分寝転がったような体勢で、顔の高さはとても低い。
一方私は、彼の顔を覗き込むように背中を丸めていて、傍から見れば、私から、その……キスしようとしているようにも見えなくもない。
因みに、鼻と鼻の間は五センチもない。本当に、正に、キス直前といった感じだ。
少女漫画のようなシチュエーションに、私の心臓は騒ぎ出す。
正悟君は私をじっと見詰めたまま動かない。私も、わざとらしく目を逸らしたりして、変に意識していると思われても嫌だし……つまりは、動けない。
見詰め合ったまま、どれくらいの時間が経っただろう。ほんの数秒にも、何十分にも感じられたけれど、本当の所は分からない。
先に動いたのは正悟君だった。彼は身体を支えていた肘を伸ばして、ますます私に近付くと、もう片方の手を私の肩に置いてそこに重心をかけた。
鼻先は、もう三センチまで近付いていた。正悟君の明るい色をした瞳は、私の目を覗き込んだまま――この時私は初めて、彼の瞳の色が黒ではない事を知った。
茶とも黄色ともつかない、不思議な色をした瞳は、ゆっくりと、しかし確実に近付いてくる。
それと共に、彼の吐息も肌に感じられるようになり、いよいよ唇にも熱を感じ始めた――
「ゴッ」
と、思ったのも束の間。
謎の音と共に眼前にあったはずの正悟君の瞳は消え失せ、顔全体で感じていた熱もどこかへ行ってしまった。
突然の事に思考がついて行かない私は、暫しポカンと口を開けたまま動けなかった。
そしてようやく意識を取り戻して最初に見たものは、右前足を上げている風馬と、その足元に転がっている……多分、正悟君。
「しょ、しょうく……」
「……っにしやがる、風希!」
飛び起きた正悟君の後頭部に、蹄の跡を見付けた――瞬時に、「ああ、蹴られたか踏まれたかしたんだな」と判別できるのは、いかがなものだろう。
風馬を怒鳴り付ける正悟君に対し、風馬はブルブルと唇を震わせて彼を見下している。
「あのなあ、だからと言って頭を蹴るのは止めろ! 下手すりゃ死ぬぞ! ……ぁあ?」
一体風馬は何と言ったのだろう。正悟君から『あの』殺気が立ち上る。
この喧嘩、何だかとっても長引きそうだ。