思ったよりも時間がかかってしまったが、予告したとおり、明るい内に公園上空へ戻る事ができた。
今日は風馬はいない。昨日、一日中付き合わせて疲れただろうから、小屋で休んでいるように言いつけておいたのだ。
靴の下に、正悟が修行場にしている広場が見える。白くてでかいのは風馬――正悟の風希だ。また抜け出して来たのか。ふたりは橘さんの前で、火花を散らして睨み合っている。
「何やってるんだ、あいつ等」
女性の前で、みっともないと思わないのか。
呆れて溜息を吐く俺には全く気付かず――それでも風使いか――正悟と風希は橘さんに何か話しかけた。何、「どちらが悪いか?」だと?
何があったか知らないが、あいつ等の事だ。恐らく、正悟が橘さんに抱き付くか何かして、それを風希が強引に止めたのだろう。
俺なら有無を言わさず「正悟が悪い」と拳骨付きで返すが、橘さんはどうするだろう。
正悟も風希も橘さんに危害を加える様子はなかったので、俺は空中に留まったまま、興味深く見詰めた。
普段俺が行動を共にする仲間に、彼女のような人種はいない。いるのは、微笑みの仮面を被った冷血漢と、常に周囲を敵とみなして警戒している男くらいだ。暖かさとは遠くかけ離れた所に俺達はいる。
だから、橘さんのような人間は非常に興味深い。
彼女の微笑みには、仲間の冷たい微笑とは違った『暖かさ』がある。まるで、春の日差しのような……。大袈裟なようであるが、俺の目には確かにそう見える。
現に、これまで町という名の檻に囲まれて育った正悟が、彼女に出会った途端に、今まで見た事もないような表情や仕草を見せた。それにつられたように、風希の態度も少しずつだが変化した。
まさに、雪解けを誘う春の陽光。そうとしか考えられない。
橘さんの回答をじっと待つ正悟と風希の姿も、とても珍しい。
ふたり肩を並べ、考え込む橘さんの鼻先をじっと見詰める二つの目。本人達は真面目なのだろうが、傍目には久々に見るこの光景がとても微笑ましい。
正悟が幼い頃は、このように二人肩を並べ同じものを見詰める姿は毎日のように見ていたが、今となってはとんと見かけない。ふたりは兄弟のように仲が良く、いつも一緒だった。
その関係が突然壊れたのは、約二年前。正悟が中学校に行くために町を離れた時だ。
正悟は風希に詳しい事情は話さず、「すぐ戻って来る」とだけ言って出て行ったが、正悟の「すぐ」と風希の「すぐ」の認識の違いは大きくかけ離れたものだった。
正悟がいなくなってから一週間が経った頃、風希の世話をしていた使用人が異変に気付いて俺に連絡を寄越した。風希が物を食べないと言うのだ。俺はこの時全寮制の学校にいたが、許可をもらうとすぐに家に戻り風希の様子を確かめた。
その時の風希の目に元気はなく、食事もろくに摂らない。この変化に、さすがの俺も戸惑った。
俺は風希の主人ではないので彼の言葉は分からない。代わりに、ずっと隣にいた風雅に話を聞くと、風希は「すぐに戻る」と言っていた正悟の言葉を信じて待っているのに、なかなか帰って来ないために不安になっているのだと言う。俺はこの時、風希に「正悟は必ず帰って来るから」と声をかけた覚えがある。
それから一ヵ月後、五月の連休で正悟か帰って来ると、風希はそれまで元気がなかったのが嘘のように喜び、駆け回った。俺を含めた周りの大人達は、そこで安心してしまったが……それが大きな間違いだった。
再びいなくなった正悟が夏休みに戻って来た時、風希の態度は一変していた。あれほどまで懐いていた正悟に向かって歯を剥いて威嚇し、近付こうものなら容赦なく噛み付く。
正悟は最初訳が分からず、何度か風希と話そうとしていたが、あえなく撃沈。腕の骨を折る大怪我を負った。
それだけではない。一月ほどの休み中に、正悟の身体は大小の数え切れないほどの傷をこさえた。
散々な夏休みを経て、正悟も次第に風希との間にできた溝を埋める事を諦め、風希と積極的に関わろうとしなくなった。
それまで順調だった正悟が、初めて挫折らしい挫折を味わった、決定的な季節だったと俺は思う。
パン、と乾いた音が聞こえて、俺は自分が思考の中に入り込んでいた事に気付く。眼下では、橘さんが両掌を合わせている所だった。
彼女は正悟と風希の間に置かれた空間を指差し、自信満々に宣言する。
「どっちも悪い!」
「なるほど」
思わず、関心の声が漏れる。
しかし正悟達は納得がいかないようで、「打ち所が悪かったら」とか「『折角助けてやったのに』」などとほざいている。
何をやったか、その瞬間を見ていない俺が言うのも気が引けるが、それにしたって正悟が蹴られるような事をしたのも、風希が――例えそれが頑丈な正悟であっても――人の頭を蹴ったのも、どちらも悪いのだ。橘さんの答えは間違っていない。
「お互いがお互いを『悪い』って言っているんだから、どっちも悪い所があるの」
橘さんのもっともな話にも、正悟と風希はまだ納得できないでいる。まだ何か文句を言うようであれば、降りて行って止める必要があるが。
「それにしても、風馬はどこから出てきたの? 本当に驚いたよ」
と、風希の鼻筋を撫でた橘さんに、正悟は何も言わない。不満を言っても聞き入れてもらえないと判断したのだろうか。
先の話題などとっくに忘れて、自分の脱走話しをする二人にもお構いなしという様子で、風希は甘えるように橘さんの肩に顔を擦り付ける。
「まるで他人事だな、お前。探す俺の身にもなれって言うんだ」
「あはは、きっと探して欲しいんだよ」
まさか。そう思った俺だが、それに反して風希の動きがピタッと止まる。もしや、図星か?
それならば……次々に湧いて来る、多彩な名案妙案。それらを頭の中で組み立て始めたまさにその時、
「うひゃあ!」
悲鳴が聞こえた。
見てみると、長い舌を半分だけ出した風紀と、手を不自然に持ち上げたまま佇む橘さんが――手に持った箱は何とか水平を保っている。
「な、何やってるんだ、お前!」
正悟は風希を怒鳴りつけながら、橘さんを引き寄せ腕に収め、彼女の首を拭き始める。奴の慌てた様から、何となく何があったか分かってしまった。
風希が、橘さんの首を舐めたのだろう。
風馬にとって『舐める』という行為は愛情表現には当たらない。どちらかと言えば、悪戯の部類に入るだろう。
真意を確かめるべく、そっと風希の顔を覗き見る。と、ニィ、と目元が笑んだ。
……間違いない。先程橘さんが言った事は、図星だったのだ。
嬉しいはずの確信だが、なぜだか素直に喜べない。
「何をしているんだ、お前達」
俺の口からは、溜息交じりの呆れた声しか出なかった。