「何をしているんだ、お前達」
何て良いタイミングで帰って来てくれたのだろう。
呆れ顔の大悟さんの姿を認めた途端、私の動揺は驚くほど素早く治まった。それと同時に、また新たな動揺が生まれる。
「兄ちゃん」
私の耳に程近い場所で、正悟君の声がする。その安心したような、それでいて驚いたような彼の息遣いに、私は思わず肩を震わせた。
声が、近い。背中に回された腕、耳と首にかかる吐息。そのひとつひとつに、私は過敏に反応してしまう。
正悟君が動く度に一々反応する私に気付いたのか、大悟さんは一つ溜息を吐き、その長い指を正悟君に突き付けた。
「何をしているんだ、と訊いている」
「へ?」
大悟さんは先程よりもはっきりとした口調で、正悟君に訊ねる。
「何って……わあ!」
正悟君は初め、何の事を言われているのか分からないようだったが、大悟さんの指とその先を幾度も見比べ、ようやく兄の言わんとする所を理解すると、慌てて私から手を離した。
半ば突き飛ばされるような形となった私は、僅かに後ろによろめき咄嗟に片足を引いて踏ん張った。この時左手に持った箱が大きく揺れ、私は慌てて右手で抑えたが、中身が無事かどうかは残念ながら分からない。
「まったく、お前はいつもいつも……その抱き着き癖、どうにかしろ」
「だ、抱き着き癖なんて人聞きが悪い。誰彼構わずいつも抱き着いているみたいじゃないか!」
「違うのか?」
「ち、違うよ」
否定する正悟君の眼差しは、なぜかどこか弱々しかった。あまり、説得力がない。
大悟さんはまた一つ息を吐くと、私に視線を移した。
「橘さん」
「な、何でしょう」
「それ寄越せ」
そう言って大悟さんが指差したのは、私が持っている白い箱。先程大きく揺らしてしまい、中身の安否を確かめたいと思っていた所だったのだ。
私の返事を聞く前に、大悟さんは箱を取り上げさっさとベンチに腰を降ろした。
「開けるぞ」
「は、はい。あの、大悟さん、甘い物は……」
「洋菓子はあまり食べないが、嫌いではない」
「良かった」
私が大悟さんの隣に腰掛けると、正悟君も空いているベンチに座った。風馬も私のすぐ脇に歩み寄る。
また悪戯されるのではと警戒したが、覗き見た風馬の顔には、さっきの意地悪い雰囲気は微塵ほども感じられず、私はそっと安堵の溜息を吐いた。
「無事のようだぞ」
「本当? 良かったぁ」
大悟さんの膝の上に再度目をやり、無事だった中身を確認すると、今度こそ盛大に息を吐いて胸を撫で下ろす。
本数が多く、隙間がなかったのが幸いしたらしい。箱に詰め込まれた六本のスティック状のケーキは、少しも崩れる事なく順序良く整列している。
「珍しい形だね」
「最近流行ってるんだよ。仙台駅にもお店があったと思うけど」
「へー」
曖昧な記憶から、女性客が店頭に列を成していたのを思い出す。あれはチーズケーキの専門店だったが、いくつか種類があったと思う。
「塾の近くに最近できてね、ずっと気になってたの。私の家族は甘いものはあまり食べないし、一緒に買って食べる友達もいないから、入るのにちょっと躊躇ってたんだ」
「意外だなあ」
「意外って、何が?」
首を傾げると、大悟さんを挟んだ向こうで正悟君が身を乗り出した。膝の上に頭を突き出され、大悟さんは邪魔そうに顔をしかめる。
「友達、沢山いそうなのに。てっ!」
ガン、と歯がぶつかる音と共に正悟君が悲鳴を上げる。大悟さんが正悟君の顎を突いたのだ。
「馬鹿言ってないで退けろ。そして立て。上に行くぞ」
「上? どうして……」
言いながら、大悟さんは正悟君を押し退けてケーキの箱を閉じた。そして私に箱を返して立ち上がると、私の隣に立っている風馬のたずなを握った。
「こんな所で、手も洗わずに食べる気か?」
言われてみて、私は改めて広場を見渡した。なるほど、公園ならあるはずの水道がない。その他トイレなどの設備は、全部本体部分にあるのだ。
加えて、正悟君と私は、さっきまで地面に転がったり風馬に触ったりしていたのだ。手は決して綺麗だとは言えない。
しかし、
「上って何?」
「麻美も行った事あるだろ? 雲の上だよ」
ただし、と正悟君は含みのある笑みを浮かべる。
「あんなのより、もっと大きな雲。きっと麻美も驚くよ」
大きな雲と言うと、例えばここから頭だけ確認できる大観音の背後に漂う、一見お化けにも見える入道雲か。それとも、反対方向に浮かぶ比較的平らな雲か。
しかしそれよりも謎なのが、そんな所に行って手など洗えるのだろうか、と言う事だった。先日正悟君に連れられて昇った小さな雲の欠片には、水道もなければ水溜りすら見当たらなかった。
「考えるより、実際に行ってみた方が納得できる」
「きゃ」
あれこれ考える私を、正悟君は軽々抱き上げる。横抱きにされて、私は咄嗟に片腕を正悟君の首に巻き付けた。折り曲げた腹の上に、なるべく水平になるようにケーキの箱をパズルのように嵌め込む。
既に何度もこういった状況を体験していながら、未だにドギマギしてしまう私の耳に、風馬が唇を震わせる音が聞こえた。それに対して正悟君は「チッ」と小さく舌打ちして、威嚇するように歯を出して返す。
「分かってるよ」
「何て言ったの?」
単なる好奇心から訊ねてみると、正悟君は苦々しい顔のまま、少しの間言葉に詰まった。
「大方、『セクハラするな』と釘を刺されたんだろう」
「兄ちゃん!」
「違うのか?」
「うっ……」
ぐっと反論を飲み込み、その間正悟君の手に力が篭る。自然と私は彼に密着する形になり、私は顔に熱が集まっていくのが分かった。
「麻美?」
「何でもない」
赤い顔を見られたくなくて、正悟君の首に額を埋める。ぴく、と彼の両腕が反応したのが分かったけれど、それから暫らくの間、私は彼に顔を見せる事ができなかった。