恋風‐こいかぜ‐

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第27話 お宅訪問


 正悟君達の言う『上』は、前回の小さな雲とは比べ物にならないくらい大きくて立派な所だった。
 広さは、私が暮らしている住宅街よりもあると思うが、正確なところは分からない。何せ、雲の上であるにも拘わらず、建物が建っているのだから。
「ここ、本当に雲の上なの?」
 足下に雲を連想させる感触はなく、見た目にも地上と何ら変わりがない。敢えて違いを挙げるとすれば、アスファルトが見当たらない事くらいだろうか。
「キョロキョロしてないで早く行こう」
「あ、はい」
 軽く手を引かれ、私はその力に従って歩き出す。
 未だに信じられないが、ここは雲の上。しかし、踏みしめているのは、間違いなく土である。流れる景色に見覚えはないが、以前訪れた仙南の小さな町に少し似ている。
 遥か後方から賑やかな声が聞こえてくる。商店街でもあるだろう。それに引き換え、私達の進行方向に人の気配はなく、道の両脇に聳える塀に圧倒されて、ちょっと息苦しい。

 五分も歩かない内に、大きな家が立ち並ぶ区画に出た。
 寺や神社のように大きな屋根の屋敷――鳥居も鐘もないので、個人の家なのだろう――を囲むように、二周りほど小さい家が四軒並んで建てられている。
 そのどれもが、建てられてからかなりの年数が経過しているようで、柱は黒く変色し、石畳も磨り減っている。前にテレビに出ていた、隣県の古い寺を思い出す。あそこの石畳も、同じように磨り減っていた。
「ぶっ!」
「あ、ゴメン」
 古い記憶からぼんやりとしたイメージを取り出していたせいで、正悟君が立ち止まった事に気付かずに、私は彼の肩に激突する。ちょうど骨の部分に鼻をぶつけてしまって、変な声が出てしまった。
 改めて辺りを確認してみると、私達は中央の屋敷を取り囲む四軒の内、一番奥の家の門前に立っているようだ。門柱の表札を見ると、古い板に『風見』と彫ってある。
「ここ?」
「そう、ここ」
 繋いだままだった手を引いて正悟君に訊ねてみると、彼は頷いてそれを肯定して前方に視線を戻した。屋根付きの大きな門は現在、風馬とそれを引く大悟さんによって出入り口を塞がれている。

 私達はふたりが通り過ぎるのを待って、門を潜った。
 中央の建物より小さいとはいえ、ここに来るまでに通り過ぎてきた他の家々と比べると、敷地は段違いに広い。それに比例して、建物も大きかった。
 敷地に入って右手に二階建ての母屋があり、正面奥には平屋の離れがある。左手前は何もない広いだけのスペースになっており、隅の方に石造りのベンチが置かれている。
 風馬は母屋の方向へ連れて行かれた。母屋と塀の間に、彼等の小屋があるようだ。大悟さんはその小屋に風馬を置くとさっさと戻って来て、玄関脇に掘られた小さな井戸から水を汲み上げ私を見た。これで手を漱げという事らしい。
 私は持っていたケーキを正悟君に預け、両手を差し出した。大悟さんはお椀型に丸めた私の手に照準を合わせ、木桶を傾けようとした――が、不意に動きを止める。
 何だろうと首を傾げたが、大悟さんは疑問に答えず、開け放した玄関を振り向いた。私と正悟君も、大悟さんの視線の先へ顔を向ける。

「ナオ」
「ナオ兄」
 兄弟の声が揃った。
「お帰りなさい、大悟、正悟。随分早かったですね……おや?」
 玄関から顔を覗かせたのは、袴姿の青年。ナオと呼ばれた青年は、穏やかな微笑で大悟さんと正悟君を出迎え、一緒にいた私に気付くと、少しばかり眉を持ち上げた。
「お客さんですか、珍しい」
「まあな」
「どなたです?」
「橘さん。正悟の彼女」
「なるほど、そうでしたか」
「なっ、ち、違うよ!」
「違うのか? 俺はてっきり……悪いな」
 さらりと言った大悟さんと、あっさり納得したナオさんに、正悟君は真っ赤になって言葉を返す。やや遅れて、私も彼等の話の内容を理解して、赤くなったであろう頬をこっそり隠した。
 三人の内、ただ一人こちらを向いていたナオさんだけが、私の様子に気付きにこりとする。私もつられて引き攣り気味の笑顔を返すと、彼はカラコロと下駄の音を響かせて私の前に歩み寄った。

「初めまして。神無月直人と申します」
「あ、橘麻美です」
 丁寧にお辞儀をする直人さんに倣って私も頭を下げると、先に姿勢を直した直人さんが頭の上でくすりと笑った。
「可愛いお嬢さんですね」
「そ、そんな事は……」
「正悟には勿体無いくらいだ」
「だから、彼女じゃ……」
 ないよね? と正悟君が目で問いかけてくる。私は答えに困って苦笑を返したが、どう解釈されただろうか。
「……まあ良い。直」
「何でしょう?」
 否定を繰り返す弟に呆れたような溜息を吐くと、大悟さんは直人さんに向き直って水が入った桶を示した。

「今から手を洗おうと思っていたんだ。手伝って欲しい」
「大悟は不器用ですからね。良いですよ、お安い御用です」
 直人さんは快く役目を引き受け、木桶を両手に抱え、私に手を出すように合図をする。私はさっきと同じように手をお椀型にして差し出したが、直人さんは「指は開いて下さい」と申し訳なさそうに言った。
 指を開いては水がすり抜けるだけではないか。そう思ったが口には出さず、言われたとおり、少し大袈裟なくらいに指を開いた。
「そのまま動かさないで下さいね」
「? はい」
 直人さんの意図が分からず、頭上に疑問符を浮かべたまま返事をする。そして彼が一言、「いきますよ」と声をかけ、桶を傾けた。
「わ……!」
 桶から零れた水は、私の手をすり抜けて地面に落ちていくはずだった。しかし、私の足元は全く濡れていない。
 まるで宇宙空間のように、水は私の手に纏わり付いて離れないが、全く動かない訳ではない。逆に、くすぐったいほどせわしなく震えている。
「何だかぷよぷよみたい」
 友人の家に遊びに行った時に床に散らばっていた、パズルゲームのパッケージを思い出す。あれは四つくっ付ければ消えるが、これはどうだろう。両手を近付けたら消えてしまったりするだろうか。
 しかし、動かすなと言われていた手前、私の好奇心のために勝手な行動はできない。

「そろそろ良いでしょう」
 試してみたくてうずうずしていたが、それは直人さんの言葉と共に敢え無く中断させられる事となる。
 手に纏わり付いていた水は、信じられないほど呆気なく足元に落ちてしまった。今まで確かに手を濡らしていたはずなのに、どう言う訳か水滴すら残されていない。
「直兄は水の使い手なんだ」
「水の?」
 不思議がる私の疑問に、正悟君が答えた。彼も私と同じように、手に水のグローブを纏わり付かせている。
「橘さんはどこまで?」
 正悟君の手から水分を落とし、直人さんは大悟さんに訊ねた。
「風使いと町の存在は知ってる」
「そうですか」
 それなら、と呟いて、直人さんは左手で仰ぐような仕草をする。すると突然、井戸の中から水柱が上がった。
 普通なら、それはすぐに重力に従って落ちるはず。しかし、ここでは私の常識はあまり役に立たないらしい。
 水柱の中程からぐにゃりと折れ曲がり、蛇のような頭が私の目の前に現れる。

「な、何?」
「ただの水ですよ」
「ただの水は、こんな動きしません!」
「そうですね」
 にこにこと相変わらずの笑みを湛えたまま、直人さんはあっさり頷いて、水の大蛇に向かって手を伸ばした。指が鼻先に触れると、蛇は僅かに身を竦めた後、「ハウス」を言い付けられた犬のように大人しく井戸の中に戻って行った。
「このように、水を自在に操る事ができる人の事を、僕達の間では『水使い』と呼びます」
「『このように』? それじゃあ、今のも直人さんが?」
「ええ」
 驚いた。風ばかりでなく、水までも意のままにする事ができるとは。
 私は学年でも成績は良い方で、物知りだと言われているが、私が持っている知識など世界から見たら塵ほどでしかないのだ。加えて、私が知っている常識は、他所へ行けば通じない事もある。その事を酷く思い知らされた。
「驚いた?」
 正悟君が、楽しげに笑いながら私を見下ろした。悔しいけれど、驚いたのは確かなので不満は隠さずに頷く。

「きっと、もう一度くらいは驚かれると思いますよ」
「何だ、珍しく一人だと思ったら、やっぱり来ているのか」
「愚問ですね」
「……そうだな」
「まだ何かあるんですか?」
 直人さんと大悟さんの会話から、まだドッキリが残されている事を知る。もう十分だと大声を上げると、直人さんと正悟君は声を立てて笑い、大悟さんも口元に力を入れて笑いたいのを堪えているようだった。


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