恋風‐こいかぜ‐

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第28話 楽しみはまた次回


 屋内に一歩足を踏み入れると、そこには肌寒さを覚えるほど涼しい空気があった。ただ単に風の通りが良いとか、日影だから涼しいというレベルではない。家が凍っているような錯覚を覚える冷たさだ。
「風がある訳じゃないのに、どうしてこんなに涼しいのかな?」
「それは良い質問ですね」
 大悟さんと正悟君の家であるにも拘らず、なぜか先頭を歩いている直人さんが私の疑問に頷いた。
「それ、どういう意味ですか?」
「ご覧になれば解りますよ」
 ほら、と指を差した先には障子を開け放した部屋からはみ出している、片足。
 近付いてみると、人が大の字になって寝転んでいるのが見えた。藍色の袴から、筋肉質なすねが覗いている。

ひらく、行儀が悪いですよ」
「季節のせいだ」
 啓と呼ばれているのは、大悟さんや直人さんと同年代の男性。三人の中で、一番目を引く容貌をしている。
 瞳は黒っぽいが、髪の色が珍し過ぎる。氷河を思わせるような薄い青は染めているのだろう。しかし、よくよく見れば眉や腕の毛、果ては睫まで同じ色をしているのは、一体どういう訳だろう。
「お二人共、お帰りなさい。そちらは、どなた?」
「橘麻美さん。正悟の想い人だそうですよ」
「まあ」
 口元に手を運んで、嬉しそうに頬を染めたのは、二十歳にも満たない女の子。胸の辺りまで伸ばした髪は啓さんと同じ色をしていてとても美しい。彼女もやはり着物を纏っていて、裾の短いそれは小さい頃に絵本で見た雪ん子を連想させた。
 彼女は部屋に入らず立ち尽くしている私の前に来ると、細い右手を差し出した。
「初めまして、麻美さん。わたくし、雪菜と申します」
「わ、よろしくお願いします」
 まさか握手を求められるとは思わず、内心焦って繊細な手をそっと握る――

「ひゃ、冷たい」
「ふふ、驚いた?」
 雪とまでは言わないが、それにしても冷たい。流水に手を浸している気分だ。
 驚きを隠せず彼女の問いに頷くと、雪菜さんは満足そうに笑って握っていた手を離した。途端に、掌が熱くなる。
「この家が涼しいのは、彼女のお陰です」
「啓様が、暑いのはお嫌いだと仰るから」
 苦笑交じりに見下ろした先では、未だ啓さんが寝転がっている。しかし、その目はばっちり開いていて、じっと私を見詰めていた。
「何者だ?」
「聞いていなかったのですか? 彼女は橘――」
「そうじゃない」
 啓さんはほとんど反動を付けずに腹筋だけで起き上がり、氷のような眼差しでなおも私を睨み付ける。
「普通の人間だろう? なぜここへ連れて来る?」
 氷、それも頑丈なつららのような視線が痛くて、思わず後ずさる。こ、怖い。

「啓兄、麻美が怯えてる。折角お土産持って来てくれたのに、可哀相に」
 すっと私の前に出て突き刺さる視線から遠ざけてくれたのは正悟君。両手を腰に当てて、啓さんを見下ろしている。
「土産?」
「あ、あの」
 正悟君の後ろに隠れている私を、啓さんが身体を傾けて覗こうとするが、正悟君に阻まれてそれは叶わなかった。
 正面の人間壁はなかなか動いてくれる気配がない。仕方なく、私は背伸びをして正悟君の肩越しに向こう側を覗いた。よろけないように目の前の腕に掴まると、彼は少し驚いたようにこちらに顔を向ける。
「甘い物は大丈夫ですか?」
「あ? まあ、平気だけど」
「良かった。ケーキ買って来たんですけど、三人で食べるにはちょっと多いかなって思ってた所だったんです」
 そう言って白いケーキの箱を指し示す。
 保冷剤は入っていたけれど、やはり今は夏なので、そろそろ食べないと危ないだろう。心配になって箱を触ってみると、保冷剤が固定されている辺りが湿っている。

「ショウちゃん、そろそろ食べないと悪くなっちゃうよ」
「ん? ああ、そうだね」
「箱ふやけちゃってますね、お皿持って来ましょうか?」
 濡れて変色している角を指でなぞり、雪菜さんが訊ねる。正悟君は少し考えてから私と目を合わせ、頷いた。
「あった方が良いね、頼めるかな?」
「勿論です。何枚必要ですか?」
「大きいの一つだけで良いよ」
「承知致しました」
 私は、一礼して部屋を出て行った雪菜さんの背中を目で追い、見えなくなると手にしたケーキ箱を目の高さに持ち上げた。保冷剤の水滴のせいでふやけていた箱が、硬い氷によって見事に補強されている。

「雪菜さんって……」
 何者だろう。
 彼女が家を冷やし、手で触れても融けない、世にも珍しい氷を意図も簡単に作り出す。まるで雪女ではないか。
「彼女の事が気になりますか?」
「とても」
「だそうですよ、啓」
 直人さんの微笑が、啓さんに向けられる。
 私は正悟君に手招きされて彼の隣に座ると、両手を膝に置いて僅かに身を乗り出した。
 誰も何も言わないが、場の雰囲気から、啓さんと雪菜さんが特別な関係にあるらしい事を察知した。そういえば、先程も雪名さんは『啓様』と呼んでいた。

 啓さんは面倒臭そうな顔で頭を掻き、雪菜さんが出て行った廊下に目をやる。彼女はまだ帰って来ない。
 暫しそうして話し出すのを渋っていた啓さんだが、その間に戻って来た雪菜さんは「聞こえていましたよ」と明るく言って、大型トラックのハンドル程もある皿と、茶色い液体が入った透明な容器を座卓に置いた。
「世の中には、謎のままにして置いた方が面白い事もあるのですよ」
「そういう事だそうだ」
 少しばかり遠まわしで柔らかな物言いだったが、要は話したくないらしい。
 啓さんは、雪菜さんに無断で彼女の事を話してしまうのに抵抗があったらしく、ほっとしたように表情を和らげた。
「雪菜さんがそう言うなら……楽しみは次の機会に取って置く事にします」
「それでは、その時までにまた新しい謎を用意しておかなければいけませんね」
 そう言って、雪菜さんはとても嬉しそうに微笑んだ。


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