「皆良い人だね」
雲から降りて、薄暗くなった道を歩きながら、私は先程までの事を思い出していた。
上空に浮かぶ大きな雲を眺め、今まであの上に乗っていた事を思うと、思わず笑みが零れてくる。
「良い人……なんだけど、ね」
どこか諦めの色を含んだ声は、とても弱々しい。明らかに疲れているらしい事が感じ取れ、私は乾いた笑いを返した。
あの後も、私達――主に正悟君――はお兄さん達にからかわれる度にいちいち反応していたから、相当体力を消費したに違いない。
「でも、最後に啓さんとちゃんとお話できたから良かった」
彼の疲れが少しでも癒えれば良いと、私は素直に嬉しいと感じた事を挙げた。
すると正悟君はくたびれた顔を隠して、私の方を向いた。目が合い、私はにこりと笑いかける。
「……まあ、ね」
視線を宙に泳がせ指先で頬を掻いて、それは良かった事だと正悟君は頷く。しかし、すぐにまた何か思い出したらしく、大きく息を吸い一気に吐き出した。
「啓兄までノッて来るんだもんなあ」
それか。
思わず納得してしまった。
最初は初対面の私を警戒してかしかめっ面だった啓さんだが、食べて話をする内に次第に笑顔を見せるようになり、私が帰る頃には大悟さんや直人さんと一緒になって、私と正悟君をひやかすまで打ち解けていた。
啓さんと仲良くなれた事実は、私にとってとても嬉しい事なのだが、正悟君は嫌なのだろうか。
「正悟君は嫌?」
「麻美は迷惑に思わないの?」
不安になって、正悟君に問いかける。しかし彼は眉と目の間を大きく開けて、逆に訊ねられた。
迷惑とは? いまいち意味を理解できていない私に、正悟君は少し唸って、最初から言葉を選び直して再度同じ質問をする。
それによると、恋人ではない相手と「付き合っている」と言われて嫌ではないのか、と言う事らしい。
「私は嫌だと思った事はないよ。……ただ、恥ずかしいって言うか、照れはするけど」
その時の照れが復活し、私は鞄を持っていない方の指先で、癖のある毛先をいじって気を逸らした。
頭部に血が上ってくる感覚が良く解る。それに伴って頬が火照って熱くなる。
「……そっか」
正悟君は暫らくの間黙ってこちらを見詰めていたが、私の発言に嘘はないと納得したのか、ぽつりと呟き視線を前に戻した。
「……うん」
私の照れが伝染したのだろうか。横目で見た正悟君の横顔に落ち着きがない。
暗いから判別不能だが、もしかしたら赤くなっているのかもしれない。
私は何だか可笑しくなってきて、思わず唇から笑い声を漏らすと、彼は再度こちらを見て「何だよ」と不機嫌そうな声を投げかけた。
「ううん、何でもない」
「嘘だ。その声は何か良からぬ事を考えている声だ」
「そんな事ないよ」
「いーや、俺は騙されないぞ。その笑い方は直兄もよくするんだからな」
変な理屈である。
「何それ。私、直人さんじゃないよ」
「そりゃそうだ」
ますます解らない。
私が肩を竦め、唇を窄めて不服を訴えると、正悟君はハハと笑って私の頭を軽く叩いた。
「俺も、嫌じゃなかった」
その一言が私の胸にすとんと落ちて、そこからじんわりと熱が身体中に広がっていく。
正悟君が触れて少し乱れた髪を手ぐしで整えて、『嬉しいよ』の意味を込めてはにかんで笑った。
周りの他の家より、少し背の高い建物が見えてくる。間もなく到着だ。
隣家の塀を見ると、目の高さより低い所に子供が描いた絵が貼り付けられている。この季節にだけ見られる光景に連動して、私はある事を思い出した。
「そうだ。ねえショウちゃん、明日の夕方時間あるかな?」
「明日? 大丈夫だけど……でも、何で?」
「お祭りがあるの。明日は一日自由にして良いってお母さんが言うから、遊んじゃおうと思って」
ヘヘ、と悪戯っ子のように笑う私に、正悟君は口をおの形に窄めて、すぐに横に引いた。
「祭りかぁ」
「昼間は友達と会う約束があるから、夕方から一緒にどうかな?」
正悟君の正面に回って、強請るように見上げてみる。と、彼は少し困ったように視線を泳がせ、鼻先を横に向けてチラリと視線だけ私に戻した。
「駄目?」
嫌なら仕方ないが……。
「だ、駄目じゃない駄目じゃないっ! お、俺で良ければ是非!」
「本当? やったあ!」
諦める準備を始めた私に、しかし正悟君はぶんぶんと首を振って私の手を取った。
この行動は予想外だったため少し驚いたが、最初からスキンシップの多かった正悟君との関わりのお陰で、この程度の事では特別取り乱す訳もなく、私は素直に喜ぶ事ができた。
「あ、でも……明日は公園行けないかも」
「友達との付き合いも大事なんだから、気にしないで。夕方会えるんだしさ」
申し訳ない事実に気付いて肩を落としたが、正悟君はそれを軽く押し流して、落ち込みかけた気分を持ち上げてくれた。
「……うん、ありがとう」
少しだけ元気になった私に、正悟君は優しく微笑むとふわりと浮かび上がる。次第に周りの空気が渦を巻き始め、私の髪も巻き込まれて頬を擽った。
「それじゃ、また明日」
「うん、また明日」
正悟君に応えて手を振った。
それを見計らったように、彼を取り巻く風は急に強さを増して、次の瞬間には目の前から彼を消し去った。