恋風‐こいかぜ‐

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第30話 想いの自覚


 どこからか、大勢の人が集まっている気配がする。
 俺は風希の毛を梳いていた手を止めて、そよ吹く風に耳を澄ました。
 若干音が外れた歌、人のざわめき、時々何かが爆発する音も小さく聞こえてくる。
「……そう言えば、今日は祭りだと麻美が言っていたな」
 独りごちた俺の背中が、ぱし、と叩かれた。振り向けば、風希のしなやかな尻尾が腕に当たった。
「ああ、悪い」
 軽く謝れば、風希は気にするなと言うように尻尾を振り、俺が脇腹に手を触れると大人しく目を閉じた。

 今日は風希の機嫌が良い。いつもなら、顔を合わせる度、口を開く度に喧嘩になるのだが、今日は触っても噛もうとしない。
 こんな事は滅多にない。天気も良い事だし、折角なので風希の身体を洗ってやる事にしたのだ。
 いつもこうなら可愛いのに。そんな思いが頭を過ぎったが、ここで余計な事を言って蹴られたくはないので、黙っておく事にしよう。
 毛先の硬い、家畜用の櫛で短い体毛を撫でてやると、風希は気分良さ気に尻尾を揺らす。
 時折、風希からもっと右だとか、もう少し強くと要望があり、その通りに毛を梳いてやったら、その度に奴は気持ち良さそうに目を細めた。

「こんなもんか」
 柔らかな鬣を梳かし終えて、俺は風希から手を離した。風が吹く度に、風希の鬣が空に溶け出すかのようにそよぐ。我ながら良い出来だ。
 俺は一人満足し、出しっ放しにしていた用具を片付け始める。
『今日はあの娘は来ないのか?』
「来ないけど……何か用事か?」
 鈍色のバケツを引っくり返して水を捨て、その他の用具と一緒に風馬小屋の棚に押し込む。
 風希は俺の動作をじっと見詰めていたが、すぐに何でもないと首を振った。

「惚れたか?」
『それはお前だろう』
「…………え?」
 冗談のつもりだったのに、真面目に返されてしまった。
 素っ頓狂な声を上げたきり言葉を失ってしまった俺に、風希はさも愉快そうに笑う。
『おれが気付かないとでも思ったか』
「いや、待て。俺が麻美を?」
『違うのか? おれはてっきり惚れているのかと思っていたぞ』
 ちょっと待て。俺は喋るなと意味を込めて、風希に掌を向けた。
 そして俺もちょっと待て。今までの事を思い出してみよう。そして整理してみよう。

『まさか、あれだけの事をしておいて、何もないなんて事は……』
 あれだけの事。それは、彼女を抱き締めたりした事だろうか。それ以上の事は……あ。
「してたな」
 つい昨日の事を思い出し、俺は耳が熱くなったのが解った。
 あの時の事は、俺自身も訳が解らない。なぜ、あんな事をしようとしたのか……。
 指先ほどまで近付いた麻美の吐息が思い出されて、俺は咄嗟に口元を押さえた。今、絶対に顔に赤みが増した。
「昨日のは、ほとんど無意識だったんだ」
『質が悪いな』
 全くだ。自分でもそう思う。

「でも、今になって思えば……お前の言う通りなのかもしれない」
 それであれば、俺の行動全てに納得の行く説明が付けられる。しかし、風希はまだ引っ掛かるものがあるようで、首を捻った。
『かもしれない?』
「……きっと」
『はっきりしろ。それでも男か』
 それとも、自分の事すら解らないのか。そうほざく風希に触発されてか、俺の中で何かが弾けて吹っ切れた。

「絶対」
 漆黒の瞳を真っ直ぐに見詰め、俺は右手を胸の前で握り締める。
 これが、俺の麻美に対する想いだ。嘘偽りなど、どこにもない。
 一度気付いてしまうと、それを認めるのにそう時間は掛からなかった。
「俺は、麻美が好きなんだ」
 言葉に表して初めて、自分の想いが形になった気がした。


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