恋風‐こいかぜ‐

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第35話 痛い勘違い


「クソッ!」
 力任せに木の幹を叩くと、揺れに耐え切れなかった木の葉が数枚舞い落ち、隠れていた小鳥達が慌てて飛び立った。
 じんわりとした痛みが拳に広がり、そこから「何をするんだ」という木の怒りが伝わってきたような感じがした。
 俺は今、いつもの公園に付属している広場で、いつものように実技訓練をしている。
 朝、いつもと同じ時間にここへ来て、いつもと同じように準備運動をし、簡単な基礎の術から始めて徐々に難易度を上げていく。十時頃には休憩がてら馴染みの鳥達と戯れたりするのだが……
「どうして上手くいかないんだよ」
 俺が十歳の時に習得した初歩的な技が上手く決まらない。それだけではない。十歳よりもっと下の年代の子供でもできるような、簡単な技ですらままならないのだ。
 何をやっても上手くいかない。こうなってしまった原因は……何だろう。
 気に押し付けた手を、爪が掌に食い込むほど強く握り締めた。こんな時に、俺は一体何をやっているんだ。

 言いようのない感情を胸に充満させていた俺だが、気配を感じて顔を上げた。
 目の前の空気が少し乱れ、そこに白い図体が現れた。風希だ。
『荒れてるな』
 いつから見ていたのだろう。奴は俺が殴り付けた木と、少しはなれた所に散らばっている木の葉を交互に見て、最後に俺に目を戻すとフンと鼻を鳴らした。
『散々じゃないか』
「調子が悪いんだ、ほっとけ」
 最悪だ。こんな情けない所を風希に見られてしまっては、昇格がますます難しくなる。苦々しさを覚え、俺は奴から顔を背けた。
『何かあったのか?』
「お前には関係ない事だよ」
 暑さのせいか、額から頬へと汗が流れて、地面に向かってぽたりと落ちる。

 こんな時、思い出されるのは、あの後の――下を向いてしまった麻美の、見えない顔。
 あの時は花火の音が五月蠅くて、彼女が何かを言っていたかどうかは解らなかった。同時に、花火の明るさに目が眩んでしまい、彼女がどのような表情をしていたかも、未だに解らない。
 その場の雰囲気に流されてあんな事をしてしまったが……
「嫌がられてたらどうしよう」 
『何やったんだ、お前』
 心の声が口に出ていたようだ。
 不安がる俺に、風希が不信の視線を投げかける。

「お前には関係」
『ある。お前の不調はおれにも響く。だから吐け。洗いざらい吐け』
 下手に知能が高いと、こういう時に不都合だ。俺は風希から顔を逸らしたまま、後ろに流した髪を撫で付けた。
 何から、どうやって話したら良いだろう。下手な事を言って蹴られるのは、何としても避けなければならない。
 暫らく俺が話し始めるのを待っていた風希だが、いつまで経っても話を纏められずに黙り込んでいるのを見て、奴は突然思い付いたように尻尾を振った。
『まさかと思うが、まさか、まさか…………』
 感付かれたか。こうなっては、隠し事や嘘を吐いた方が、蹄の餌食になる可能性が高くなる。俺は内心舌打ちして、頭を撫でていた手で首を掻いた。
「そうだよ、そのまさかだよ」
『この……』
 怒鳴られるな、これは。
 わなわなと身体を振るわせ始めた風希を横目に、俺は覚悟した。最悪、頭突きや蹴りも覚悟しなければなるまい。そう考え、歯を食い縛った。

『大馬鹿野郎ー!』
「ぐふっ!」
 来るとは思った。来ると思った……が、
「は……腹かよ! 死ぬかと思ったぞ!」
 まさか腹部を狙ってくるとは思わなかった。
 日頃から身体を鍛えていたのが幸いしたのだろうか。それとも運のお陰か。今の所、内臓破裂の気配がないのが不幸中の幸いだ。
 けれども念のため、後で医者に診てもらわなければ。
『お前が悪い。おれは、おれは……お前をそんな子に育てた覚えはない!』
「俺だってお前に育てられた覚えはねーよ!」
 何だっていうんだ。確かに、蹴られるような事をした俺が悪いのだが、だからと言って腹を蹴るな、腹を。内臓破裂で人は死ぬんだぞ。

「畜生、思い切り蹴りやがって……」
『お前という奴は、人様の娘の純潔を奪っておいて、よくもそんなのうのうと……』
「だからって……ん?」
 今、聞き捨てならない単語が聞こえて来た気がするのだが、気のせいだろうか。
「お前今、純潔って言った?」
『それがどうした……まさか、初めてじゃないのか?』
 勘違いってやつか、これ。どうしたら良いんだ、俺。
 ぐるぐると頭の中を考えが逡巡する。そして、出た答えはごく簡単なもの。
「貴様……」
『あ?』
「俺を何だと思ってるんだー!」

 舞い戻ってきた小鳥達が、再び空へ飛び立った瞬間だった。


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