『ばーか』
「うっさい」
未だ鈍い痛みが残る腹を擦りながら、俺は昨夜あった事の全てを、風希に話した。
奴の反応に、俺はお約束とばかりに語気を荒げた。予想していたとはいえ、実際に言われてみると腹が立つ。
『しかし馬鹿で済んで良かったな。大馬鹿だったら流石のおれも愛想を尽かしていた所だ』
「流石にそこまではしないって」
俺だってまだ十四歳の子供だ。流石に、風希が最初考えていたような事はしないし、それくらいの道徳意識はある。だが、
「あれから、ほとんど会話もしてないんだ。別れた時に『じゃあな』『またね』って交わした切りだ」
それ以外は、本当に一言も話していない。痛いくらいの沈黙が二人の間にあって、とても気まずかった。
「嫌われていたら、どうしよう……」
ただそれだけが思われる。
女の子にとって、口付けという行為は特別なものであると、前に聞いた事がある。
例え、どんなに仲が良くても、恋愛感情を抱いていない相手から突然口付けられたら、ひょっとしたら嫌悪に繋がってしまうかも知れない。
それを考えたら、どうしようもない恐怖に襲われてしまい、修行どころでなくなってしまったのだ。
風希は暫くの間、ベンチに座って頭を抱え込む俺を見詰めていた。下を向いて腕で視界を遮っていても、頭に刺さる奴の視線と気配で何となく解る。
しかしすぐに、風希は何かを察知して他所を向いた。俺も耳を澄ましてみると、人の足音がする。
そういえば、今日は結界を張った覚えがない。それを思い出した途端、急に血の気が引いた。これはマズイ。
「隠れろ」
とりあえず、この場に似つかわしくない風希に藪の中へ隠れているよう言い付け、広場の入口へ注意を向けた。
足音は次第に大きくなり、明らかにこの場所へ近付いて来ているようだった。
雑音が入らぬよう、できる限り周囲の風を抑えて耳を澄まし、足音を元に人物像を探る。
小柄で体重は軽く、子供よりも大人に近いが、かと言って完全な大人でもない。性別は女だろうか。
そこまで読み解き、はたと気付がいた。この足音に、覚えがある。それも、ごく最近聞いた人間のものだ。
足音が広場の前で止まった。
俺はそこで初めて、目でその方向を見る。
伸び放題になった雑草の合間から、帽子に覆われた頭が覗いていた。日に透けた毛先が、ほんのり茶色に見える。間違いない、彼女だ。
「麻美?」
名前を呼ばれ、その人影はビクッと震えて、それからおずおずといった様子で顔を広場の中へ覗かせた。
「お、おはよう」
「おはよう。そんな所にいないで、こっちへ来たら?」
「う、うん」
麻美は目に見えて緊張しているようだった。昨夜を思えば、それも仕方がないのだけれど。
そういう俺だって、何でもないフリをしているが、実はかなりドキドキしている。彼女を招く掌は汗を掻いているし、何より……震えている。
「ショウちゃん、あのね」
「うん?」
俺の前に立ち、麻美はもじもじと手をいじっている。
何を言うつもりなのだろうと相槌を打って、話し始めるのを待ったが、彼女はなかなか意味のある言葉を口にしない。
「あ、あのね、今ね、友達の所へ浴衣を返して来たの」
「そうなんだ」
恐らく、麻美が言いたかったのはこれではない。彼女は一体どんな言葉を飲み込んだのだろう。もしかして、昨日の返事とか?
だとしたら、どのような返事を持って来たのだろうか。気になる。非常に気になるが、これは無理に聞き出してはいけない気がする。
結局俺は突っ込んだ質問をする事もできず、ただ彼女のたどたどしい話を頷きながら聞くしかできない。
「お茶を出してもらったんだけどね、それがとっても美味しかったの。それでね……」
「それは良かった。ところで麻美」
「ハイッ!」
浴衣を返しに行った先で出されたお茶が、いかに美味しかったかを語りだそうとする麻美の話を遮った。そういえば昨夜もこの事で起こられたんだっけと頭の片隅で思いながら、俺はベンチの右隣をポンポンと叩いた。
「座ったらどうかな?」
「う、あ、はい」
俺の勧めに、麻美は大人しく従った。間を拳二つ分を空けた距離が、妙に生々しい。
訪れてしまった沈黙を嘲笑うかのように、二人の間を風が吹き抜る。真夏なのに寒いような感覚に、思わず身体を震わせた。
「あの、ね、私……」
少しの沈黙を破って、麻美は再び話を切り出した。
今度は俺は何も言わず、代わりに視線を返してその先を促した。
「私ね、昨日の……ショウちゃんが、その、好きって言ってくれた事、すごく嬉しかった」
そして、麻美は意を決したように俺を見上げて目を覗き込む。その眼差しの強さに、俺は思わず息を飲んだ。
「私も、ショウちゃんの事が好きだよ」
想いが通じ合った瞬間だった。
この時、俺は訳も解らず、その細い身体を、力いっぱい抱き締めた。力を込めすぎたせいで「痛い」と苦情があったが、それにも構わずただ抱き締める。
結果、藪から様子を見ていた風希に頭突きを喰らわされ、俺は暫くの間、頭痛に悩まされる事となった。