ゴン、とちょっと聞き覚えがある音がしたと思ったら、同時に「うぐっ」と人の呻く声も聞こえてきた。
ごく近い位置から発せられたその音声で、私はすぐに何があったか想像できてしまった。
一呼吸置いて心の準備をし、それからそっと顔を上げる。すると案の定、最近お馴染みの白い顔がすぐ近くに迫っていた。
また小突かれたのだ。ただし、それはあくまでも風馬の感覚で、人間からすれば殴られたも同然である。
「風馬さん……」
私の声に応えてか、風馬の鼻がフンと鳴る。と、それまで私の肩に額を乗せていた正悟君が復活し、のそのそと顔を上げた。
「風馬じゃない」
「え?」
この動物は、風馬という種類ではなかったのか。
記憶の間違い探しを始める私を、正悟君は「そうじゃない」と言って止める。では、どういう事だろうか。
「『風希』って、名前で呼んでやって。こいつもそれを望んでる」
「あ」
そういう事か。納得して声を上げた私に、正悟君は軽く笑んで頷いた。
ずっと私の背中に回されていた腕が解かれ、軽く掌が添えられるだけになる。そして更に、私と風馬が真っ直ぐ見合えるように、正悟君は半身を開いて空間を繋げた。
「えっと……風希くん?」
「……『くん』いらないってさ」
「じゃあ、風希?」
まるで自己紹介する時のような雰囲気に緊張してしまって、私の口調も固くなる。
しかし、初めて私に名前を呼ばれた風希は、とても嬉しそうに尻尾を振って鼻先を近付けてきた。
「おいおいおいおいおい」
目の前に身体を乗り出され、正悟君の視界と動きがほぼ封じられてしまう。
声だけで抗議する正悟君だが、風希はそれに構う事なく私の肩に顎を乗せて擦り寄ってきた。
私の位置からだと、正悟君の様子がよく見える。彼は目の前に風希が立ち塞がっているせいで、身体を仰け反らせたまま動けずにいるようだ。
「ふふ」
「何が可笑しいんだ」
込み上げてくる笑いを押さえ切れずにいると、正悟君はムッとした表情をこちらに向けた。
私は慌てて口元を押さえたが、彼は相変わらずじとーっとした目で睨んでくる。
「……え、えへ」
「『えへ』じゃないよ、まったく……」
不機嫌そうに息を吐き出す正悟君。怒らせてしまっただろうか。
不安になって、風希の影からそっと覗き込もうとしたけれど、こんな時に限って風希はあっさりと退いてしまう。
そのまま私達から離れると、何を思ったか地面を蹴って空へ帰って行ってしまった。
「あ、あれ?」
「『腹が減った。先に帰る』だとさ。あいつなりに気を使ってるんだ」
困惑する私に、正悟君はすかさず風馬語を訳して伝えてくれた。――相変わらず不機嫌そうな声で。
それに対し、私は無意識に身体を硬くした。しかし、正悟君の手によってそれは解かされる事となる。
いつの間にか離れていた手が、腰に回されグイッと引き寄せられた。そして更に、もう片方の手が私の頬に当てられる。
キスの予感に、鼓動が高鳴った。
……のも束の間。
「あうっ」
頬っぺたをむにっと摘まれた。
すごく痛い訳ではないけれど、やっぱり痛い。地味に痛い。
「なにふゅるろーっ!」
「さっき笑った罰だよ。こっちは困ってたって言うのに」
「うーっ」
だからと言って、抓らなくても……。
半泣きになりながら抗議の声を上げるが、正悟君はそれを聞くどころかもう片方の頬も摘み上げ、みょーんと引っ張った。
「痛い痛い!」
「ホラ、言う事は?」
「うー……ごめんらはい」
そんなに悪い事はしていないのに。
そう思うが痛いのも確かで、今はこの痛みから解放される事の方を優先したかった。
「よし」
渋々ながら謝ると、正悟君はすぐに手を離した。もう摘まれないように、私は自分の両手で頬をガードする。
「ちょっとやりすぎたかな。ゴメンゴメン」
「むー、酷いよ」
口では不満を語るが、胸の辺りに嫌な感じは全くと言って良いほどない。それは顔にも表れているようで、押さえた頬は緩みっぱなしだ。
これって傍から見たら、やはり恋人同士に見えるのだろうか。実際そうだから何の問題はないのだが、嬉しい反面ちょっと恥ずかしい。
それこそ、現在彼女がいないお兄ちゃんなら、「ケッ」とでも言ってそうな……。
その場面を想像すると、思わず笑いが込み上げてくる。
「今度は何?」
「ううん、何でも」
顔を挟んだまま頭を振ったが、にやけた顔では残念ながら説得力はない。
「本当に? 怪しいな……」
正悟君は少しばかり眉をひそめ、不信そうな表情で私の顔をじっと見詰めてくる。
あまり見詰められていては、顔に穴が開いてしまう。
照れも手伝って、私は早々に瞳を逸らしてぼそぼそと呟いた。
「私達、恋人同士なんだよね」
「そうだけど?」
正悟君は何の疑いも照れもなく頷く。まだ気付いていないのだ。
私は一度、彼の顔を覗くために目線を上向け、またすぐに下を向いた。
「傍から見たらバカップルだよね」
発言してから、何も反応がないのでそっと顔を上げてみる。
と、まるで瞬間湯沸かし器。正悟君は瞬時に顔を赤らめ、口をパクパクしたまま言葉を封印してしまっていた。
その後暫らく、私達の間に再び沈黙が訪れる事となった。
……これからは、もっとちゃんと考えてから発言しよう。