日が傾きかけた夕方、少し影が長くなっただけでまだ明るい住宅地の中を、私は一人で歩いていた。
浴衣を借りた友人の家に忘れ物をした事を思い出して再度訪ねてみたら、ちょうど家族で昼食を摂ろうとしていた所で、まだ何も食べていなかった私は誘われるままお邪魔して、ざる蕎麦をご馳走になった。
その後はおやつにアイスクリームを食べて、日差しが薄いオレンジに変わる頃まで、一家団欒に混ぜてもらっていたのだ。
暖かくて楽しくて、笑顔が堪えない時間――家族とはこういうものなのか。
これまでにもこの一家とは一緒に過ごした事があり、私の家と違う事は何となく感じていた。
私が幼い頃からお父さんは仕事に忙しく、お兄ちゃんも今の私と同じように塾や習い事に通っていたために、家族全員揃う事がとても珍しかった。皆で食事をする事も少なければ、どこかへ出かける事もほとんどないのだ。
そのためか、私は家族のあり方をよく知らない。
仕事中心に日々暮らしているお父さんとは、週に一度か二度言葉を交わす程度。嫌いではないけれど、どうやって話したら良いのか分からないから、自然と会話する時間は少なくなる。
何かと口煩くて厳しいお母さんは好きだけど、色々と制限を課してくるからちょっと苦手。
家族の中で唯一、私と同じ目線で接してくれるお兄ちゃんは大好き。色々と心配してくれるのは嬉しいのだけれど、少し鬱陶しく感じてしまっている事は、私だけの秘密。
学校の友人にこの事を話したら「普通」だと言われたけれど、これが普通では寂しくはないだろうか。
それとも、暖かい家の方が特殊なのか――。
それはそれでどうかと思うが、どちらかと言ったら私は暖かい家族の方が良い。
あの一家のように、時々でも団欒の時間があって、その間は笑顔が堪えず、急かされる事も怒られる事もない。
そして何より、何も言わずとも自分の居場所が用意されている。そういう家族こそ、私の理想であった。
その理想が、形となって私の前に現れたのだ。
驚くと同時に、本当にこんな家族があるんだと嬉しくなり、また私の家はどうしてこうではないのだと悲しくもなった。
家へ続く道を、とぼとぼと一人きりで歩く。
何なんだろう、このモヤモヤした気持ちは。胃の辺りで煙が充満しているような、すっきりしない重いこの感じ。
一歩家に近付くに連れて、足が重くなって……
「帰りたくないなぁ」
不意に出てきた呟きに、私は思わず口元を押さえた。
「……帰りたくない」
もう一度、今度は少し小さな声で言ってみる。すると途端に胃のモヤモヤが増幅し、出口を求めて喉元まで登ってくるのが分かった。
――『帰りたくない』のだ。
初めて気付いた、あの家に対する自分の気持ち。
どんなに外観が可愛くて気に入っていても、今は見たいとも思わない。
遠くから、五時になった事を知らせる音楽が聞こえてくる。
気が付けば、私は身を翻し駆け出していた。
そろそろ帰ろうか。
そう考え、俺は片付けを始めた。
地面に転がしておいた、木箱が二つ。横長の木製腰掛の上には、同じく横長の鞄。その中には、細長い棒のような物も入っている。
腰掛の上に出しっ放しにしていた参考書類に付いた砂粒は払い落とし、その他の物と一緒に鞄の中に詰め込んだ。
今日は荷物が多い。先程麻美が帰った後、上から持ってきた物も数えると、いつもの三倍近くある。
こういう時は風馬がいると楽なのだが、風希との関係が拗れてしまっている手前、贅沢も言っていられない。全部自分で持って帰るしかない。
一通り片付けを終え、忘れ物の確認をしつつ結界を解いた時だ。
「ショウちゃん!」
聞き慣れた足音が、叫び声と共に勢い良く広場に飛び込んで来た。
突然の事に対応し切れなかった俺は、飛び付かれた勢いに押されて地面に倒される。
ぶつけた尾てい骨に衝撃が走る。
「いてて……あ、麻美?」
俺が上半身を起こしても、麻美は俺の胴に腕を回してくっ付いたまま、離れようとしない。
走って来たせいか、肩が大きく上下している。
「帰りたく、なくて……」
苦しい息の中に混じって、麻美のか細い声が届いた。
帰りたく……え、まさか、そういうお誘いですか。
途端に取り乱しそうになった俺だが、はたと気付いて麻美の顔を上げさせた。
走った苦しさに紛れて、また別の表情が垣間見える。――目が赤い。
「一体どうしたんだ、分かるように話してくれ」
「ショウちゃん、ショウちゃんっ」
麻美は真っ赤な瞳から、涙をぽろぽろ零して俺の胸に顔を押し付けた。
この時俺はどうして良いか分からず、泣き続ける彼女を抱き締め返す事しかできなかった。
大変な事を忘れているのにも気付かずに。