恋風‐こいかぜ‐

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第39話 思い出した忘れ物


 二十分ほどだろうか。
 ずっと泣き続けていた麻美はようやく落ち着きを取り戻し、真っ赤に腫れた瞼を気にして指先で触っている。
「ヒリヒリする」
「あんまり触りすぎると良くないよ」
 そう言って、俺は麻美に水で濡らした手拭を差し出す。
 彼女はひんやり冷たい手拭を目元に押し当て、ゆっくりと深く息を吐き出した。
「気持ち良い」
「それだけ熱を持ってるって事だよ。……で、何があった?」
 単刀直入に問いかける。と、麻美は手拭を膝の上に降ろして黙り込んでしまった。
 訊き方がまずかっただろうか。……回りくどい言い方は苦手だ。

「あの」
「さっきね、浴衣を借りた友達の家に忘れ物を取りに行ったの」
 沈黙に耐え切れず声をかけようとしたが、それを遮って麻美が話し出した。
 俺は出かかった言葉を咄嗟に飲み込み、口を閉じる。それを横目で見て、彼女は話を続けた。
「お昼をご馳走になったんだけど、とても仲の良い家族でね、いつ見ても暖かそうで幸せそうなの」
 何を言いたいのだろう。そう思って首を傾げたが、麻美は今度はチラリとも目を向けなかった。
 代わりに、俯き溜息を吐く。
「私の家とは大違い。あんなの見たら、帰りたくなくなっちゃうよ」
 口元に力ない笑みを貼り付けている麻美の横顔を見ると、俺は何も言えなくなる。
 結局の所、彼女が何を言いたいのかは今ひとつ分からなかった。
 だが、麻美が今、家族との関わりの中で苦しんでいるらしい事だけは、情報が足りなずとも何となく理解する事ができた。

 俺は少しの間、返す言葉が見付からず、麻美を見詰めたまま黙っていた。
 その視線に堪えかねたのか、彼女は唐突に立ち上がり、くるりと振り向くといつもの明るい笑みを浮かべた。
「変な事言ってゴメンね。さてと、そろそろ帰らなきゃ!」
 けれど、その表情はどことなくぎこちない。おそらく、無理をしているのだろう。
「送ってく」
「大丈夫だよ、一人で……」
「駄目」
 帰れる。そう続けようと口を開いた麻美だが、俺はそれをすぐさま遮った。断固として、一人で行かせる訳にはいかない。
「この間みたいな奴がうろついてるとも限らないだろ」
 それに、今の不安定な状態の麻美を一人で歩かせるのも心配だ。
「でも」
「『でも』じゃない。ほら、行くよ」
 半ば無理矢理手を引っ張って、さっさと歩き出した。
 微妙に歩幅が合わないのか、麻美はぱたぱたと小走りで俺の後を付いて来る。

 雑草が生い茂る荒れた遊歩道を通り過ぎ、黄色い車止めの間をすり抜けて公園の敷地から出る。
 その時、俺はある事を思い出した。
「あ」
 思い出した途端、知らず知らずの内に頭に上っていた血が、一気に背中を駆け下りる。
 大変な事を忘れていた。
「どうしたの?」
 突然立ち止まった俺を気にして、麻美が俺の左腕にしがみ付き顔を覗き込んでくる。
 しかし俺はすぐに表情を作り直し、口角を上げた。
「いや、何でもないよ」
「……ふうん」
 俺の腕にしがみ付いたまま、麻美は首を傾げた。この顔は、きっと納得していない。
 けれど、それには気付かないふりをして、俺はただ顔面に微笑みを貼り付けた。

 何事もなかった。その事に、心の中で安堵の息を吐きながら。


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