恋風‐こいかぜ‐

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第40話 久し振りの微笑


 家に近付くに連れ、麻美の足取りは次第に重くなってきていた。
 その事に早々から気付いていた俺は、彼女に見えないよう顔を背けて奥歯を噛んだ。
 何が麻美を苦しめているのか。その原因は、恐らく彼女の家にあるのだろう。
 視線を進行方向に戻すと、他より少しばかり背の高い家の屋根が、すぐそこまで近付いてきていた。
 半歩後ろを歩く麻美は、ますます歩幅を狭めて歩く速度を遅めている。
「だいじょ――」
「麻美!」
 大丈夫か。俺の声は、麻美を呼ぶ別の声に遮られた。
 麻美は大きく肩をビクつかせ、俺は反射的に振り向く。

 そこで肩を怒らせていたのは、小柄な女性。
「お母さん」
 少し掠れた麻美の声に、震えが混じる。
 赤い無地のエプロンを着けた目の前の女性は、背格好だけ見れば確かに麻美に似ていた。
 だが、その表情は、麻美とは似ても似つかない。
 釣り上がった目に、眉間のしわ。そして、纏っている空気がその原因だろう。
 麻美の暖かい雰囲気と反対に、母親からは刺々しさを感じる。
 側にいる者全てを攻撃せんと、その背後から針が飛んで来ているような気さえ覚えた。

「塾でもないのに、こんな時間まで何をしているのかと思えば……男の子なんかと遊んでいたの?」
 その『男の子』がここにいるのに、何と容赦ない言い方だろう。
 母親は思わず一歩引いてしまった俺を一瞥。更につかつかとこちらへ向かって歩いてきたかと思うと、鋭い眼差しで俺を睨み付けた。
 身長は俺より低いというのに、何と言う威圧感なのだ。
「この子は今、大事な時期を迎えているの。邪魔をしないで頂戴」
 それだけ言うと、母親は俺の後ろから麻美を引きずり出して、さっさと家へ入って行ってしまった。
 一人取り残された俺は、ただ呆然と立ち尽くしたまま――。

「な、何なんだ?」
 遅れて出た呟きに、返す声はなかった。


「……来ない」
 日が暮れ、ひぐらしが鳴き出しても、麻美は公園に訪れなかった。
 今日は月曜日。平日だから、塾とやらへ行く日である。
 にも関わらず、彼女は顔を見せない。
 はやり、昨日の事が関係しているのだろうか。
 そんな事をぼんやり考えながら、仰向けになってふよふよと空中を漂う。
「麻美……」
 ぽつり、呟くが誰も何も返さない。
 遊歩道の入口を見ても、彼女の影はない。
 ……一体、何だと言うのだ。

 考えても考えてもすっきりしない。
 考え過ぎたせいか、何について考えていたのかすら解らなくなってしまった。
「くそっ」
 この苛立ちを外へぶつけようと、起き上がろうとした時だ。
『おい』
「え? ――うわっ!」
 思いがけず真上から声をかけられて気を散らしてしまった俺は、体勢を立て直すことができずに地面へ落下した。
 頭を庇って目をきつく閉じ、来るべき衝撃に備える――が、いつまで経っても身体を打ち付けた時の、あの痛みはどこにも感じない。
 不思議に思って、俺は片目を薄く開ける。
 見えたのは、顔面すれすれまで迫っている乾いた大地。首を捻って後ろを向くと、爪痕のように細い月を背にした風希がそこに立っていた。
 青白い光を纏い、どことなく神秘的な雰囲気を醸し出している。

『何をしている』
 不覚にも見惚れてしまった俺を、風希の声が現実に引き戻す。
 同時に、俺の身体が地上に降ろされた。
「風希、お前が……」
 助けてくれたのか。そう言いかけた俺を、奴は軽く睨んで黙らせる。
 何だか、昨日から睨まれてばかりだ。
『もう夕飯時だぞ。さっさと帰って来いと、兄上殿が言っていた』
「え、もうそんな時間なのか?」
 言われて見れば、辺りは真っ暗で月まで出ている。
 七時過ぎまで明るいこの季節だ。時計は恐らく八時近くを指している事だろう。

「やっべ、早く帰らないと――」
 散らかったままの荷物を纏めにかかったが、すぐに手を止める。
『どうした?』
「……いや」
 風希が不思議そうに首を傾げ、俺の前に立って手元を覗き込む。
 俺は適当に答えて片付けを再開したが、風希は怪訝そうな顔でこちらを見詰めている。
 それを無視して、俺は鞄に荷物を詰め込み始めたが、最後の持ち物を手にするともう一度片付ける手を休めた。
 そして少しばかり顔を上げ、風希の澄んだ黒目をチラリと見、また目を背ける。
「……麻美が、来ないんだ」
 他所を向いたまま、俺は囁いた。
 普通に喋ったつもりだったが、思いの他上手く声が出ず、掠れてしまったのだ。

『ふられたな』
「そういう事言うなよ。本気でへこんでるんだから」
『安心しろ。追い討ちをかけるつもりで言っている』
「…………」
 こいつには、相棒を慰めようという発想はないのか。
 傷口を抉るような言葉しか湧いてこないのか。
 言いたい事は色々あったが、色々ありすぎて逆に言葉が出ない。
 風希は一つ溜息を吐き、黙っている俺の頭に顎を乗せるとぐりぐりと、胡麻でも擂り潰すかのように擦り付けた。
「いでででで」
『馬鹿者、冗談だ』
 ジョリジョリと、髪の毛が擦られる音が骨を伝って聞こえてくる。
 捻られた髪の毛が引っ張られて、頭皮が無駄に刺激されて痛い。結構痛い。

「いてーよ、オイ」
『優しくしたつもりだったが?』
「お前の感覚と一緒にするな!」
 まったく、人が落ち込んでるっていうのに、こいつは何をしに来たんだ。
 夕飯だからって迎えに来たんじゃないのかよ。それとも何か、傷口に塩を塗り込みに来たのか?
 苛々と声を荒げる俺だが、風希はそれを気に留める様子もない。
『まあ、明日も来なかったら、その時心配すれば良い』
 ……様子もなかったが、そう話す風希の横顔は、久し振りに優しい色をしていた。
 それに対し、俺は驚いて返事をするのを忘れてしまう。
「……そうだな」
 やっとの事で返せた言葉に、風希は僅かに微笑んでみせた。
 俺は更に酷く驚いてしまって、結局奴に頭突きをお見舞いされてしまった。

 ああ、額が痛い。


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