とんだ失敗だった。
家を出ると同時に、オレは溜息を吐いた。あんな風に、麻美を苦しめるつもりはなかったのに。
しかし、いくら悔やんでも後の祭りというやつだろう。
オレにはできる事と言えば、麻美に謝る事くらい。……怒られるだろうな。
怒られて済むなら良いが、これで信用をなくしたりしたら、きっと暫らく立ち直れない。
それを考えると、麻美に本当の事を話す事は……無理だ。できそうもない。
「そもそも、あの場に居合わせたのが悪かったんだよな」
あの時の事を思い出し、オレは深く溜息を吐いた。
日曜日の夕方。
この日はたまたま、バイトの上がりが予定よりも少し早かったので、普段は滅多に通らない団地の中を通っていく事にした。
家から十分ほど離れた所に、小さな公園がある。
遊具はブランコしかないから子供には人気がないが、静かで緑もある落ち着いた雰囲気の公園だ。
特に大した理由もなく、その公園を通って帰ろうと思い立ってバイクを降りたオレだが、そこにあった光景に思わず足を止めてしまった。
麻美だ。妹の麻美が広場にいる。
それも一人ではなくて、オレの知らない少年と並んで座っていた。年頃は麻美と同じくらいだろうか。
やや茶色がかった硬そうな髪をハリネズミのように立てた容貌は一見軽そうだが、よくよく見てみると服装はちゃんとしていて、最近流行のズボンを下げて履くような真似はしておらず、外見に対する印象は良かった。
その少年が、麻美の背に手を廻して擦っているように見えた。――泣いているのか?
何となく感付かれたくない雰囲気だったので、眺めの悪い場所からしか見えなかったが、麻美は目に布を押し当て肩を不規則に上下させているようだった。
もしや、あの少年が何かしたのだろうか。それなら、それなりの報復も考えなければならないが……
「急にごめんね」
ああだこうだ考えている内に、麻美は落ち着いてきたらしい。涙声であるが、少年に謝罪の言葉を述べる。
少年は無言で首を横に振り、彼女の背中から掌を離した。
「ヒリヒリする」
「あんまり触りすぎると良くないよ」
そう言って、少年はどこからか布を取り出し、水筒の水で濡らして麻美に差し出した。
なるほど、よく気が利く性格でもあるらしい。これは好印象である。
「気持ち良い」
「それだけ熱を持ってるって事だよ」
受け取った布を目元に押し当て、麻美の口から吐息が零れる。
少年は水筒を片付けながら言葉を返し、チラリと麻美の顔を窺った。
「……何があった?」
少しの沈黙を置いて、少年が訊ねる。
これはオレ自身も非常に気になる所だ。普段笑顔を絶やさない麻美が、一体何が原因で泣いていたのか。
「さっきね……」
麻美は暫らく黙り込んでいたが、やがて俯いたまま話し出す――が、
「おっ?」
ポケットの中で、携帯電話が震える。
オレは慌てて公園から離れ、電話を取り出した。画面には、母さんの名前。
チッ、何だよ大事な時に……。
内心毒づきながら、通話ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし」
『お兄ちゃん、今どこにいるの?』
「……六丁目のバス停近くだけど」
二十歳にもなって、『早く帰りなさい』か? 思わず眉をひそめたが、それを知らない母さんは言葉を続ける。
『もう五時過ぎだって言うのに、麻美が帰って来ないの』
「ふーん」
そりゃそうだ。今まさにそこの公園にいるのだから。
だがそれを母さんに言ったなら、ほぼ確実に『連れて帰って来なさい』と言われるだろう。
連れて帰るとなると、あの二人の間に割って入って行かなければならなくなる。それも、あのシリアスなムードを壊して。
そんな度胸はオレにはない。というか、そんな事をして麻美に嫌われるのはごめんだ。もしそんな事になったなら、オレは当分立ち直れないに違いない。
そんな訳で、オレは母さんに麻美の居場所を知っている事を告げず、「すぐに帰って来るよ」とだけ言って電話を切った。
画面に映し出された通話時間は、三分ちょっと。
思わぬ邪魔が入ってしまった。さて、麻美達はどうしているだろう。
再び広場を覗き込むと、そこでは相変わらず麻美が話をしているものだと思っていたが……
「変な事言ってゴメンね。さてと、そろそろ帰らなきゃ!」
何と。話は終わってしまい、帰ろうとしているではないか。
広場では麻美と少年が、一人で帰れるいや駄目だ送るなどと話しているが、オレにそんな事は関係ない。麻美に見付かる前に、早くこの場を立ち去らなければ。
少年よ、後は頼んだぞ。
オレは少年と心の中で見えない握手を交わし、路肩に止めておいたバイクに跨って走り出した。
ところで、あの二人は付き合っていたりするのだろうか。
道中そんな事を考えて複雑な気持ちになったが、妹の成長と捉えれば喜ばしくも感じた。
あの少年とも話をしてみたい。その内、麻美は彼を家に連れて来たりするのだろうか。両親より先に、オレに紹介してくれると嬉しい……。
そんな事を考える内に、腹の中で絡まっていた複雑な気持ちは解け、家に付く頃には楽しみで堪らなくなっていた。
「ただいまー」
「お帰りなさい」
玄関を開けると、真っ先に母さんが出迎えた。
小柄な身体に良く似合う赤い無地のエプロンは、オレと麻美が母さんの誕生日にプレゼントした物で、最近の気に入りらしい。
母さんはオレの顔を見詰め、微笑ましそうに表情を和らげ首を傾げた。
「楽しそうね。何か良い事でもあったの?」
「ん、ちょっとね。麻美に彼氏ができたみたいで――」
そこまで言いかけて、オレは口をつぐんだ。口元を押さえ、そっと母さんの顔を覗き込む。
「麻美に……?」
母さんの顔は見る見る強張り、今までの笑顔は一瞬で消え失せた。これはマズイ。
「いや、あの……勘違いかも。さっきそこで、男と歩いてるの見たから……」
慌てて言い繕うが、出てしまった言葉はなかった事にはできない。
「――麻美ッ!」
「ちょ、母さん!」
オレの止める声も聞かず、母さんはサンダルを爪先に引っ掛け外へ駆け出て行った。
追って出て行った路上には、タイミング悪く、麻美と例の少年が驚きの表情をこちらに向けている。
「お母さん……?」
麻美の怯えた顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
この時オレは、麻美は家にいたくなくてあの公園へ訪れていた事を、瞬間的に感じ取った。
……遅すぎる理解であったが。
「だからいつも帰りが遅かったんだよな……」
近所の酒屋で、自分が飲む分のコーラと麻美の好きな蜜柑ジュースを買って家に帰る途中、オレは周りに人がいないのを良い事に、大きな独り言と溜息を吐いた。
大変な間違いをしてしまった。言葉にすれば口を滑らせただけの話だが、それが与える影響は大変なものだった。
母さんの命令で、麻美は家から出る事を禁じられた。
それによって麻美は荒れてしまい、いつもなら自ら進んで取り組むような学校の宿題にも手を付けず、自室に閉じ篭って一日を過ごすようになってしまった。
当然、輝くような笑顔も消え、かつての明るく優しい彼女はどこかへ行ってしまった。
こうなってしまった原因は、全て家の中にある。
母さんは、例の少年のせいだとか言っているけれど、それは全く違う。『こうさせてしまった』のは、オレ達家族だろうに。
そうだと自覚していても、どうしたら良いのか分からずにいた。
俺に与えられている選択肢は、少なくとも二つある。
一つは、このまま母さんに従い続ける事。そしてもう一つは、オレ自身が動いて母さん側を離れて麻美側へ付く事。
前者は楽ではあるが、麻美の事を思うと気持ちの良いものではない。
後者は勇気のいる事ではある。だが、本当に麻美を大切に思うならこうするべきなのだろう。
オレは当然、後者を選びたい。家族で一番近いのはオレだし、信用されているのもオレだ。
ただ、どう動いたら良いだろう……。これが一番の悩みである。
どう動けば、麻美と母さんのどちらも、傷を最小限に抑えつつ、この問題を解決へ導く事ができるのか。
それが、オレに課せられた課題なのだ。
言葉にするのは簡単だ。けれども、オレ一人でどうこうするにも荷が重い。
誰か、一緒に計画を遂行する同志がいれば……。
そこまで考え、オレは不意に思い出した。
ちょうど良い事に、足も家とは別方向へ向いている。
「そうだ……!」
日は大分傾いていたが、オレは進行方向を変えず、そのまま駆け出した。
袋の中でコーラの缶が大きく揺れる音がしたが、そんな事に構っている場合ではない。
駆け込んだのは、近所の公園。短い遊歩道の先にひっそりと存在する小さな広場で、オレは足を止める。
肩で息をして乱れた呼吸を整えながらも、そこにいた人物を視線で捉えて放さない。
「君に、頼みがある」
暫くして、苦しい呼吸の中からようやく言葉を発すると、相手は真ん丸に見開いていた目を、更に大きくした。
「……俺に、ですか?」
変声期を過ぎたのだろうが、やや高めの声色からは幼さを感じる。
聞き覚えのある声と喋り方に親しみを覚えながら、オレは一つ頷いた。
「妹を……麻美を、助けて欲しい」
すると彼は、驚きに染められた丸い目を僅かに細めて顎を引き、凛とした表情を作り出す。
「その話、詳しく聞かせて下さい」
瞬時にして変わったその声は、最早ただの少年のものとは思えなかった。
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