恋風‐こいかぜ‐

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第45話 窓から訪問者


 物音がした気がして、窓の外を見た。
 そこには、向かいの家と電線しか見えないはずだった。しかし、今はどういう訳かこの場に不似合いなものが、ガラス越しに映っている。
 あまりに望んでいたために、幻覚でも見ているのだろうか。
 私は急いで窓辺に立つと、滑りの良いサッシを右手へスライドさせた。
「こんばんは」
「ホンモノ?」
「本物だよ、触ってみる?」
 にこにこと変わらぬ笑顔を湛え、代わらぬ明るい声を投げかけるその人は――幻なんかではなかった。
 右手を手を取られて相手の頬に指先が触れると、ますます現実味が増してくる。
 それと同時に、胸の奥が小さく震えて、目の奥が熱くなる。

「会いたかった」
 ようやく口にする事ができた声は、少し震えていた。
 その事が恥ずかしくて俯くが、窓の外にいる正悟君はそれを止めるように、私の頬を両手で挟んで上向かせた。
「俺だって会いたかった」
 二人の視線が重なると、胸の奥から湧いてきた何かは、目に出口を見出して涙となって溢れ出す。
「しょ、ちゃ……」
 ぽろぽろと頬を落ちる雫を優しく拭うと、彼は部屋の中に片足を踏み入れた。
 私は一歩下がってスペースを作る。彼はできた隙間に降り立ち、ごく自然な流れで私を抱き締めた。
「ごめんよ、俺がもっとしっかりしていれば……」
「どうして、ショウちゃんが、謝る、の?」
 嗚咽で途切れ途切れになりながら訊ねると、彼は困ったように眉をひそめて微笑んだ。
 ……答えない気らしい。

 中途半端に聞かされていては気になるではないか。
 面白くなくて頬を膨らませた私に、彼はくすくす笑って額をくっつけてきた。
 そして、未だ雫が転がる濡れた頬に唇を落とされ、私は思わず肩を竦める。
 その反応を見て、彼はまた笑い声を上げて、私を囲っていた腕に力を込めた。
「ん、もう! ショウちゃん!」
 顔のあちこちにキスをしたり、頬ずりをしたりと、落ち着かない事ばかりしてくれる正悟君に、私は身を捩って抵抗の意を示すが、背中と腰に回った手はなかなか緩まない。それどころか、ますます強く押さえ込んできて、身動きを取るのが難しくなってくる。
「しーっ、お家の人に気付かれるよ」
 誰のせいだと思ってるの!
 私は叫びそうになったが、口元に人差し指を立てられ思い留まった。代わりに、愉快そうに笑っている彼を睨み付ける。
 が、彼にやめる気はないらしい。腰を抱く腕はそのままに、もう片方の手が頬に添えられる。
 私は何か言ってやろうと口を開いたが、声を発する間もなかった。

 これで三度目。
 離れていく瞳に映る自分の顔を見詰めながら、私の頭の中でカウンターが回される。
 そのままぎゅっと抱かれて、私は彼の肩に額を乗せて目を閉じた。
 暫らくそうしていたが、やがて彼が僅かばかり背中を丸めて私の耳元に唇を寄せた。
 またキスをされるのかと思って身を硬くした私だが、予想に反して耳に唇を連想させる感触が訪れる事はなかった。
 代わりに、掠れたような囁き声が鼓膜を揺らし、どこかの骨がきゅっとなる感じがした。

「麻美を、ここから連れ出そうと思う」
「……え?」
 別段聞き返すような事ではないと、顔を上げてから気付いたが、彼は特に気にする様子もなく頷いた。
「明日か明後日。……ただ、外へ出て帰って来るだけでは意味がないから、麻美も準備をしておいて」
「準備? 意味がないって……?」
 すると彼は一瞬だけ他所へ目をやった後、再び私に視線を戻す。
 私は首を傾げて話の続きを待っていたが、実際に言葉を聞くと驚かずにいられなかった。
「麻美の気持ちを、お母さんにちゃんと話すんだ」
「そんな事!」
 無理だ。
 だって、お母さんは家で一番強くて、怖くて……正しいのだ。
 もし私が何か言ったとしても、自分が正しいと思っている事に関しては絶対に耳を傾けようとしない。
 だから私はいつしか、お母さんに自分の気持ちを伝える事ができなくなっていた。……諦める事を覚えたのだ。

 しかし彼は、無理だと決め付ける私に強い眼差しを投げかけ思考を止めた。
「無理じゃない」
「でも……」
 思考が鈍っても、出てくる言葉は弱気なものだった。
 そんな私の頭を、彼が優しく撫でる。その動作に、きゅうっと縮こまっていた私の心は次第に解されていくのが分かった。
「このままじゃ、麻美はずっと不自由なままだ。お母さんの言いなり。主導権は自分にはない。……そんな人生で良いの?」
 そんなの、嫌に決まっている。言葉の代わりに頭を振ると、彼は軽く笑って頷いた。
「それじゃあ頑張ろう。怖いかもしれないけど……大丈夫、俺が付いてる」
 大丈夫……本当に?
 無言で問いかける私の眼差しに、彼はもう一度、「大丈夫」と言った。
 それを見ると、不思議な事に胸にあった不安は見る見る晴れていき、私の心はすっかり晴れていた。


「それじゃあ、俺はそろそろ帰るよ」
 部屋の壁にかけられた時計を見て、正悟君は名残惜しそうに私から手を離した。
「気を付けてね」
「ん、ありがと」
 開けっ放しだった窓の淵に手をかけ、外へ出ようとした彼だが、不意に動きを止める。
 何だろうと思って首を傾げる私に、彼は振り向き歩み寄って来て……

 ちゅ。

「おやすみ」
 唇に短く口付け、ニッと笑った。
 私はというと、自分でも分かるくらい顔を真っ赤にして、固まってしまった。
「……お、おやすみ」
 文句……言ってやりたいけど、なぜかできない。代わりに、蚊の音のような声を返すしかできなかった。
 彼は悪戯っ子のような笑顔で私の頭を掻き混ぜると、右手をひらひら振って窓枠に足をかけた。

 飛び出した彼を追って私も外を見たが、既に人の姿はない。風に紛れてしまったのだろう。
 私は軽く息を吐くと、網戸を閉めてベッドに寝転がった。
 未だ感触が残っている気がする唇に指先で触れ、もう一度、ほぅっと息を吐く。
 胸の中が温かい。
 こんなに幸せな気持ちになれたのは、いつ以来だろう。
 枕元にお座りしている兎のぬいぐるみと目が合うと、私は正悟君にするのと同じように笑いかけた。


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