当初の予定より、大分遅くなってしまった。
天空に浮かぶ白い大地を全速力で走りながら、髪の生え際から滴る汗を乱暴に拭った。
その瞬間ぴりりと皮膚が裂けるような痛みが走るのは、俺が全身に細かい傷を無数に負っているから。
ろくな手当てもしないままに飛び出して来てしまったから、深い傷は一歩踏み出す度に開いてしまい、痛くて仕方ない。
それでも、俺は走る事を止めなかった。
『おい』
斜め前を走る風希が声をかけるが、俺は無視をした。すると奴は苛々と鼻を鳴らし、再度大声を上げた。
『正悟!』
「……何だ、お前が俺の名前を呼ぶなんて、天変地異の前触れなんじゃないか?」
口では冷静なふりをして見せたが、本当は心臓が止まりそうなほど驚いた。それを隠せたのは、今自分が走っていて息が上がっているからだろう。
風希は俺の言い方に不愉快そうな顔をしたが、特に言葉や態度に表す事はなく、代わりだと言うように鼻先を背中に向けて大きく振った。
『乗れ!』
「あ?」
『乗れと言っている。二度も言わせるな。お前の足では遅すぎるんだ!』
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
乗れ? 風希の背に?
自分でも、目が大きくなっているのが分かり、そんな俺自身にも少し驚いた。
心臓が止まるとか、飛び出すようなものとはまた別の……例えるなら、時が止まった。そんな、意外なほど静かで冷静な驚愕が、胸の奥から水が湧き出るように広がっていく。
『速度を落とすな! お前に合わせるとおれに負担がかかるんだ。さっさとしろ!』
言葉を失っている俺を、風希が怒鳴りつけた。
そこで正気を取り戻して奴の方を見ると、ずっとこちらを見ていたのか目がかち合った。不意に口元が緩み、規則的な揺れに合わせて口角がゆっくりと持ち上がる。
「一生乗せないんじゃなかったのか?」
『いつまでも半人前でいるなら、という話だ。それより時間がないのだろう?』
言われてみて、改めて日の方向を見ると確かに、あまり時間に余裕はない。
傍らでは風希はこれまでになく走る速度を落として、ぐっと俺に近付いている。再度目が合うと、奴は鼻を鳴らして頭を上下させた。
俺は風希の顔と背中を交互に見て、最後にもう一度視線を合わせると頷き返し、強く地面を蹴って跳び上がった。
いつの間にか広くなった白い背中を跨いでたずなを握ると、嬉しいような泣きたくなるような奇妙な感覚にとらわれたが、それを吹き飛ばそうとするが如く、風希の走る速度がぐんぐん上がっていく。
流れる景色を景色として認識できず、既に塞がっていたはずの顔の傷が強風に打たれて少しずつ開いていく。
なるほど、風希が遅いと煩く言う訳だ。流石の俺も、この速さで走る事はできない。
人間と風馬の足の速さの違いを見せ付けられて、俺は思わず感心してしまった。
『どの方向だ?』
「西だ。そこのでっかい建物の前から真っ直ぐ下ってくれ」
薄暗くなってきた町の中で、煌々と灯りが点る巨大な店を、風希にも判るように指差して、そこから見下ろす住宅地を指し示した。
『了解』
俺の指先を眼で追って、風希も今自分達がどこにいるのか理解したようで、納得した様子で頷いた。
いつもの町並みと一緒に、馴染みつつある風の匂いも近付いてくる。
目的地の真上に来ると、俺の指示がなくても風希は走るのを止めて立ち止まった。
「良いか、俺達二人の初仕事だ。失敗は絶対に許されない。心して取り掛かるように」
風希は言葉を返す代わりに、鼻を鳴らして尻尾を鞭のようにしならせた。俺は意気込む風希の首を撫でてやり、姿勢を正すと深く息を吸い込んだ。
「行こう、風を起こしに!」