今日は珍しく、お父さんの帰りが早かった。
休日はお兄ちゃんがバイトに出かけているので、こうして家族全員で食卓を囲むのはかなり珍しい。
しかし、全員揃ったから食事が楽しくなるかと言えば答えはノーである。
会話はほとんどないし、必要以上のお喋りは「行儀が悪い」とお母さんに一喝されて終わりになる。
それが、どうだろう。今日はどういう訳か、お母さんが真っ先に口を開いた。
「そうだわ、お父さん。麻美の事なんだけど」
自分の名前を出され、私は一度咀嚼するのを止めて隣に座るお母さんをちらりと見た。
お母さんは箸を置いて、真っ直ぐお父さんの方だけを見ている。私の視線に気付く事は、ない。
私はお父さんやお母さんに気付かれないよう、そっと溜息を吐くと口の中のほうれん草を飲み込んだ。
あまり長い時間、この場にいたくない。さっさと食べ終えてしまおう。
そう思って、残り少なくなったご飯を口に含み、具が少なくなった味噌汁で胃の中に流し込むと、米が変な所に引っ掛かったらしく、思い切りむせてしまった。
お母さんは私に「慌てて食べるからよ」とだけ言うと、すぐに話題と視線を元に戻した。
「暫らくは外出させられないでしょ? 休み中ずっとお兄ちゃんに見てもらう訳にもいかないし、家庭教師でもつけたらどうかしらと思ってるんだけど」
「良いんじゃないか。そう言えば、高校はどこを受けるんだ?」
「斜向かいのお嬢さんが通っている学校が良いと思うわ。あそこは先生が良いって噂なの」
こういう話をする時、私が会話に加わる事はあまりない。誰もが、私が加わっても何の意味も成さないと考えているのだ。
両親は私に、良い学校、良い会社に行って欲しいと願っている。それは、『世間様に自慢できる娘』を完成させるため。
しかし私は、お母さんが言うような『良い学校』には行きたいと思わないし、お父さんが思うような『良い会社』で働きたいなどとは微塵ほども思えない。
互いの希望が違う方を向いている。これでは、両親と私の両方が納得のいく話し合いができるわけがない。
主張はあっても口にできない私は、逆らう事をとっくに諦めている。
だから、今回のようにお母さんが「こうしたらどうかしら」とお父さんに話しかけても、また始まったと思いながら黙っているしかできないのだ。
「……なあ、それって食事中にする話か?」
いつもなら、私と一緒に黙って聞いているお兄ちゃんが、思い切り顔をしかめてお母さんに訊ねた。
「何言ってるの、こういう大事な事は、家族が揃った時にこそ話し合うべきじゃない」
「だったら主役を交えるべきだと思うけど。麻美がどうしたいか、それが一番大事だと思うよ」
母さんはそう思わない? と、お兄ちゃんが問いかけると、お母さんはほんの少し面白くなさそうな顔をしたが、「それもそうね」と言って私に顔を向けた。
お父さんもこの話題が登って以来初めて私の方を向く。
「え、と……」
「将来やりたい事があるって、言ってたよな?」
「う、うん」
何を話したら良いかと戸惑う私に、お兄ちゃんが助け舟を出す。少し躊躇ったが、ここはお兄ちゃんの好意に甘えることにして、大人しく小さな木船に乗り込んだ。
「あの……私、将来服を作る仕事がしたいと思ってるの。だから高校も服飾科がある学校に……」
「やあねえ、この子は。夢見がちで困っちゃうわ。そういう専門職って、目指したからって皆がなれる職業じゃないんでしょ? 悪い事は言わないわ。夢なんか見ないで、お母さんの言う通りにしなさい。そうすれば、絶対に苦労しないから。ね?」
「…………」
乗り込んだは良いが、あっけなく転覆させられてしまい、愕然としてした。
主役を省いた話し合いが再開されても、私は暫らくの間息を吸う事もできなかった。
お兄ちゃんは気まずそうに、そして済まなそうに顔を歪めていたが、それを気に留める余裕もない。
結局、私の声など聴いてくれないのだ。
お父さんも、お母さんも、言葉の意味だけ理解して、そこに孕まれる私の憧れや願いなど、全く、感じ取ってすらくれない。
どうして……どうしていつもこうなの!
ガタン!
胸の奥から湧いて来る、マグマのように熱いもの。それの存在を認知するのとほぼ同時に、私は立ち上がっていた。
「何してるの、麻美。まだおかずが残ってるじゃない」
お行儀が悪いわよ、とでも続けようとしたのだろう。しかしお母さんは私を見たまま黙って動かなくなった。お父さんも同じように、目を真ん丸にして私を見詰めている。
見ると、私の手が、身体が、小さく震えていた。意識してそうしている訳ではないから、抑えようとして治るものでもない。
いい加減、限界が来たようだ。
今まで溜め込み押さえ付けてきたものが、喉元まで競り上がってきて、奥歯を噛み締めても流出を止められそうにない。
「あさ……」
「どうしていつも、私の気持ちを無視するの?」
「無視なんか」
「してる! お母さんはいつだって私の話を『聴いて』くれない。自分の都合の良いように歪曲して捉えてしまう。今だって私の夢を否定して、『お母さんに都合の良い方向』へ進ませようとしてたじゃない!」
口に出口を見出した得体の知れないそれらは、一度零れだすと留まる事を知らずに次々と溢れ出す。
「お父さんも、私の言う事よりお母さんの言う事を一番に信用してる」
「それは、お母さんの言う事が」
「正しいから? でも、『そう思ってる』のは、お母さんじゃなくて私なんだよ?」
顔が熱い。……血が上っているのだ。
かつてないほど言い立てる私に、両親は言葉を失っている。お兄ちゃんも驚いてはいるものの、不意に目が合うと「もっと言え」とでも言うように小さく頷いた。
それを見て、私の口はますます滑りが良くなった。まるで、油を差したばかりの滑車のようである。
「この家に居場所を感じた事なんて、ほとんどない。受け入れてもらえたと、一度だって思えた事はないんだもの。
私をありのままに受け止めてくれる人は皆、家の外にいる。ショウ……この間の男の子だって、その内の一人だった。あの人に会って、話をするのが数少ない楽しみだったのに、それすら奪われる」
風が強くなって、窓ガラスを叩く。最早、自分が何を喋っているのか解らなくなっていた。
「ねえ、これって私の人生だよね? こんな不自由な人生、嫌だよ。こんな……」
ここまで石ころが坂を転がるように勝手に動いていた口が、途端に大人しくなる。この先を言いたい。だが、言ってしまったらどうなるか解らない。
私は暫し躊躇っていたが、一際強くなった風の音に背中を押されたような気がして、意を決して息を吸い込んだ。
「こんな所でじっとしてたら、苦しくて死んじゃうよ!」
この先どうなろうとかまうものか!
生まれてこの方出した事のない声で叫ぶ。すると、待っていましたと言わんばかりのタイミングで、リビングの大きな窓がひとりでに開き、室内に強風が吹き荒れた。茶碗の上に渡していた箸が、テーブルを転がって床に落ちる。
強風が止んで数秒後、今度はごく弱い風が頬を撫ぜる。
そこで私は我を取り戻し、未だ何が起こったか理解できていない家族から目を外すと、たった今開いた窓から外へ飛び出した。
そこで初めてお母さんが悲鳴を上げ、誰かが立ち上がる音が聞こえたが、私は振り向かない。
そこにいる保障は、どこにもなかった。ただ、そんな気がしただけで、勘違いかもしれなかった。
でも、窓の外にぼんやりと浮かび上がる人影を見止めると、私の勘もなかなか鋭いのではないかと思えてしまう。
「ショウちゃん!」
「ご苦労様、良く頑張ったね」
風希の背に跨っていた正悟君は、笑顔で私に手を差し伸べる。その手を取ると引き上げられ、抱きかかえられるようにして白い背中の上に乗せられた。
「な、な、な……」
「またあなたなの?」
声が出ないお父さんと、目を三角にして怒るお母さん。
その二人に正悟君は会釈すると、一人愉快そうな顔をしているお兄ちゃんに視線を移して小さく頷いた。
「少しの間、お嬢さんをお預かりします。害意はありませんので、ご心配なく」
「待ちなさい!」
お父さんとお母さんはサンダルも履かずに庭に出てきたが、風馬の動きに普通の人間が追い付く訳がない。
二人が風希の足跡を踏む頃には、私達は二階の屋根より高い所に浮いていた。
何とか引き止めようとする両親に反して、お兄ちゃんは相変わらずの笑顔である。
不思議に思って見ていると、お兄ちゃんの口が動いて……『行ってらっしゃい』? 確かにそう言っているように見えた。
口の動きに手を振る動作が加えられて私は少し戸惑ったが、お兄ちゃんが正悟君のことを快く思っているようなので、それが嬉しくて何度も頷き手を振り返した。