恋風‐こいかぜ‐

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第50話 雲のはずれ


「お母さん達、警察呼んだりしてないかな?」
 家から離れ、この辺りで最も大きな山の方へ向かう途中、不意に思い付いて不安になった。
「大丈夫、お兄さんが何とかしてくれるさ」
「……本当に大丈夫かなぁ?」
 気になっても、決して下を見てはいけない。車のライトは勿論、パチンコ店の灯りまでも豆粒大になってしまう遥か上空を、不思議な生き物――風馬の背中に乗って歩いているのだ。
 風馬という生き物は、見た目は小柄な馬のようだが、持っている能力はそこら辺の牧場にいるような馬とは似ても似つかない。
 まず、彼らは空を飛ぶ。そして、風を自分の手足のように自在に操る事ができるのだ。
 風馬の背に乗れば、ヘリコプターに乗らずとも空中散歩が楽しめる。しかし、彼らの背中に乗るには、対象となる風馬に信頼されなければならず、その過程がとても大変なのだ。
 事実、今私を乗せてくれている風希も、パートナーである正悟君に対して、噛む、蹴る、暴言を吐くなどして、正悟君が触る事さえ難しい。と、思ったけど……あれ?

「そう言えば、よく風希が乗せてくれたね」
「ん? ああ、まあ、ちょっと色々あって……そうだな、風希の言葉を借りると、『いがみ合うのも疲れる』しね」
「ふうん」
 気になる表現が出た。『ちょっと色々』って、何だろう。
 気になる。非常に気になるが、果たして訊いたとして教えてくれるだろうか。
 無意識に正悟君を睨み上げていたらしい。彼は居心地悪そうに私を見下ろして、時折他所へ視線を飛ばしている。
 私は誤魔化して笑うと慌てて視線を逸らしたが、逸らした先が不味かった。
「た、高い……」
 思わず眩暈を起こしてしまうほどの高度。明らかに、いつもより高い所にいる。
 ここから落ちたら、痛みを感じる前にあの世へ逝くのだろう。そんなのは御免だけれど、この高さだ。どうしたって想像してしまう。
 身が竦み、正悟君の衣服を握ると、彼は小さく笑って私の脇腹に置いた手に力を入れて抱き直した。
「怖い?」
「ちょっと……でも、家でじっとしてるよりずっと良い」
 私も正悟君の身体に腕を廻して抱き着くと、耳が彼の心臓の近くにくっ付いて、少し早い心音が聞こえるとなぜだか笑みが零れた。

「初めてだよ。お父さんとお母さんに向かって、あんなに物を言ったのは」
「スッキリしたんじゃない?」
「うん、ちょっと。……でも、怖い」
「怖い?」
 顔を上げると、正悟君は眉を寄せて「どうして?」という表情をしている。
 私は頷き、何の気なしに風希の鼻先に視線を動かした。正面に、巨大な雲の山が迫っている。そこへ降りるのだろうか。
「風希、家に行く前に街の外で降りてくれ」
 正悟君の呼びかけに、風希は鼻を鳴らして応えると、徐々にスピードと高度を下げて空に浮かぶ白い大地に迫って行く。
 地面にぶつかるすれすれまで近付くと、最後にふわりとしたから吹き上げる風が吹いて衝撃を消してしまって、それから風希はゆっくりと時間をかけて着地した。
 辺りはただ白いだけで、家の灯りもかなり遠い。純白の地平線にほんのり光っている箇所があるが、あれが街だろうか。
 正悟君の手を借りて風希の背から、柔らかそうな雲の上に飛び降りた。実際に立ってみると、感触は芝生を踏むのと大して変わらないのが不思議だ。
「いつも、聞き分けの良い子だったから。もしお母さんに失望されたりしたら、ますます私の居場所がなくなっちゃう。だから、帰るのが怖いの」
 振り返り、私達が飛んで来た方角を見ると、夜空がぼんやり明らんで見えた。

「もし」
 ぽつり、私の唇から言葉が零れ、正悟君に振りいた。ひとつ歩み寄り、彼の瞳を真っ直ぐ見詰める。
 正悟君は私を見詰め返し、無言で言葉の続きを待っている。
「私が、『連れて行って欲しい』って言ったら……」
 何て馬鹿な事を。頭の中でもう一人の自分が嘲る声が聞こえて、私は口を噤んだ。口に手を当て、これ以上可笑しな事を喋ってしまわぬよう、言葉を封じて暫し。
 それまで黙っていた正悟君は大きく息を吸うと、一メートル以上あった二人の距離を半分まで詰めて、大きな手で私の頭を優しく撫でた。
「麻美がそれを本当に、心から望むのなら、俺には麻美を連れ去る覚悟ができているよ」
 だけど。彼は続けた。
「それはどんなに手を尽くしても、越えられない障害が現れた時。つまり、最後の手段だから」
「今は?」
「最後の手段を今使う必要はないだろ?」
 くすり、小さく笑って正悟君は私の髪を梳く手を背中に降ろして、軽く押して促した。

「ひとまず俺の家に行こう。力の使い過ぎでくたくたなんだ」
「え?」
 言われて初めて気が付いた。彼が酷く汚れ、傷付いている事を。
「ど、どうしたの、その傷!」
「いやあ、ちょっと一戦交えて来てさ」
「一戦って……」
 それ、笑って言う事じゃないよ。そう言いたかったが、言葉にならなかった。
 それにしても、どういう理由で、何を相手に、『一戦を交える』事になったのか。
「ねえそれって、さっきの『ちょっと色々』と関係あったりする?」
 風希が、正悟君が背中に乗るのを許すまでの『ちょっと色々』。どうも無関係には思えないのだが。
「どうだろうね。どう風希、関係ある?」
 白い彼の傍らに立ち、訊ねる正悟君と一緒に私も風希のガラス玉のような瞳を覗き込んだ。
 しかし風希は鼻を鳴らして顔を背けるだけで、私には何を言っているのか一つも解らなかった。

「少しは、見直してくれたようだ」
「どう言う事? 全然意味が解らないよ」
 眉をひそめ、唇を尖らせて不満がると、正悟君はにこにこと機嫌良さ気な笑顔をこちらへ向けた。
「きっとすぐに解るさ」
 そう言って、軽々と私を持ち上げ風希に乗せると、彼自身も私の後ろに跨りたずなを取った。
 ずるい!
 そう言いたかったが、突如揺れた背の上では、悲鳴のような声しか出ない。
 風希の硬い蹄は白い大地を強く蹴り、次の瞬間には高く飛び上がっていた。


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