「ただいま」
「やっと来たか」
雲の上、風見家の門を潜ると、広い庭にお兄さんが一人で佇んでいて、正悟君に気付くとゆっくりとした足取りで近付いてきた。
大悟さんは、正悟君の隣に私を見止めると目を大きくして驚いた。
「家から出られないと聞いていたが」
「ああ、攫って来た」
けろっと言う正悟君。
その瞬間、場の空気が固まったのが解った。
風希は顔を背け、正悟君は「あれ?」と異変を感じ取って口元を引き攣らせる。
「お前……」
「わーっ、待って待って待って!」
大悟さんは怒りのオーラを滲ませて、じりじりと正悟君に迫り行く。拳には筋が浮かび、かなり強く握られているのが解る。
「だ、大悟さん……」
「正悟は言葉が足りないんですよね」
「いい加減学習しろよな。似たようなやり取り何度も見てるぞ」
どうしたら良いかと戸惑っていると、直人さんと啓さんが話しているのが背後から聞こえた。振り向くと、啓さんは呆れ返った様子で、直人さんはとても楽しそうに微笑みながら兄弟を眺めている。
止めなくて良いんですか? 特に直人さん、笑ってて良い状況ですか?
言葉にならない問い掛けは届いただろうか。二人は私の視線に気付くと軽く声をかけてきた。
「こんばんは」
「よお、よく出て来れたな」
直人さんは相変わらずにこやかに、啓さんは無表情でありながら愉快がっている感が否めない。
「あの、止めなくて……」
「あー、無駄無駄。あいつが一度ああなると、一発殴るまで手が付けられないから」
「でもあの、ショウちゃん怪我してて……」
しかし、何を言っても啓さんは極めて楽観的で、「大丈夫大丈夫」と繰り返す。その隣で、直人さんは微笑んだまま息を吐き出した。
「せっかく昇格しても、中身は相変わらずですね」
さらりと嬉しそうに呟く直人さんだけれど……ちょっと待って、今何と言った?
「昇格?」
「あれだけ仲が悪かったのに、この短い期間にどんな変化があったのかと、審判の方も驚いておいででしたよ」
相変わらず、にっこにこと笑っている直人さん。「どうしてでしょうね」と私に言われても、何の事だかさっぱりです。その事を伝えるつもりで首を傾げたが、彼はそれを別の意味に捉えたらしい。
「あなたですよ」
「私?」
「知り合ったばかりの僕が言うのも可笑しいですが、あなたがあの二人に良い影響を与えたのだと、僕は思うんです」
あの二人にあなたが影響を受けたように、と話す直人さん。これまでに頭の混乱も大分落ち着いてきたようなので、状況を整理してみよう。
話の内容からして、どうやら正悟君は一人前に昇格したらしい。
その事を、なぜか私に黙っている。
試験の時、審判は正悟君と風希の関係が変わった事に対し、大いに驚いた。
その変化はどうして起きたのか。
直人さんは、私が二人に何かしらの影響を与えたのでは? と考えている。
大体こんなところだろうか。
「……試験だったんですね」
だから昨日は来れなくて、今日も自分の家に立ち寄る暇もないほどだった。
疲れているだろうに、怪我を負っているのに、それら自分の事よりも私を迎えに来る方を優先してくれたのだ。
「知ってたら余計なこと考えなくて済んだのに」
「ご存じなかったのですか?」
「あーっ、直兄!」
てっきり知っていると……そう続けようとしたのだろう。けれど、それは正悟君の叫び声でかき消される事になった。
「どうして先に言うんだよ!」
「お前がもったいぶってるのが悪いんだろ」
呆れ顔で、もっともな事を言うのは啓さん。大悟さんに比べ、拳より言葉でどうにかしようという意思が感じられる。
「せーっかく俺が言おうと思ってたのにー」
しかし啓さんの気持ちは正悟君には伝わっていないらしい。左頬に新しい痣を作っておきながら、まだ怪我をする危険を冒す気なのだろうか……。
私の心配を他所に、ぶーぶー文句を言う正悟君は『弟』の顔をしている。ずっとこうして可愛がられてきたんだろうな。その割に、傷の数は半端ではないけれど。
……そうだ、怪我!
正悟君が細かい傷を沢山負っているのを思い出し、慌ててみて見ると彼の背後にゆらりと大悟さんが……。こ、これ以上の怪我は流石にマズイかも知れない。
「あ、あのぉー!」
一発で気付いてもらおうと大声を出したが、ちょっと失敗だった。慣れない事はするものじゃない。
声が裏返って、結果注目を集めたけれど、かなり恥ずかしい。
「あのですね、ショウちゃん怪我してるので手当てした方が良いかなぁと思うんですけど……」
失敗を誤魔化すべく、精一杯の声量で主張する。と、正悟君を含めた全員が、そういえば忘れていたと言うように、彼の傷の様子を確かめ始めた。
「この程度の傷なら、清潔にしていればすぐに治るだろう」
「念のために薬を湿布した方が良いのでは?」
「その前に風呂だろ、風呂」
お兄さん達はさっさと相談を終わらせると、啓さんはボロボロの正悟君を担ぎ上げて家の中へ、直人さんは手当ての準備を始め、大悟さんは風希を小屋へ戻しに動き始めた。
「ひ、啓兄待って! 麻美、上がって待ってて!」
家の奥へ連れて行かれる間際、正悟君は慌てた声色で私に呼びかけて、暗い廊下へと消えて行った。
「………………」
こうして、私は庭の隅に一人取り残された。
大悟さんが風馬小屋から戻ってくるまでの数分間、このまま呆然と立ち尽くす事になる。