私がお風呂から上がっても、正悟君の手当てはまだ終わっていなかった。
「いてて……結構パックリいってるなあ」
「この程度で済んで良かったですね。この試験で、片腕を落とされた人もいると聞いた事がありますよ」
傷だらけの正悟君の腕に、慣れた手つきで包帯を巻きながら、直人さんは平然と言った。
「そんなに危険なんですか?」
自分が受けるわけでもないのに、私はなぜか不安を抱えて訊ねた。
直人さんは相変わらずの微笑みを返し、軟膏の塗り薬を手に取った。それを比較的浅い肩の傷に塗り付ける。
「僕達の間では、これが普通なんですよ」
私達が受験戦争を繰り広げるのが普通であるのと同じように、彼らが命を掛けて試験を受けるのも、また普通なのだと言う。
「とことん不思議な所ですね」
町、と言うが、どのような所なのか全く想像できない。
「いずれはあなたの町になるでしょう。近々訪れてみる必要がありますね、正悟」
「なっ、直兄」
瞬時に真っ赤になった正悟君を、直人さんがからかって笑う。
私も少し赤くなっていただろうか。直人さんの笑みがこちらへ向けられ、微笑が一層深められる。
「僕が正悟なら、このまま連れ去ってしまうでしょう。しかし、そうはしたくないのでしょう?」
訊ねられ、正悟君は肌蹴た着物を直すと直人さんに向き直った。
「当然。俺は直兄ほど自分勝手じゃないんだ」
「言ってくれますね」
「耳が痛いとか思わない?」
「さあ。直そうとも思いませんし」
あ、そ。と正悟君は直人さんから視線を逸らし、硬い髪の毛を掻き混ぜた。
「正悟さん、麻美さん、布団の用意ができましたよ」
話しの切れ間を狙っていたのか、開けっ放しにした障子の影から、雪菜さんがタイミング良く顔を覗かせた。
「ああ、ありがとう」
正悟君は雪菜さんにお礼を言うと、立ち上がって浴衣の裾を叩いて直した。
「行こう。部屋へ案内するよ」
「う、うん」
急いで立ち上がり、正悟君の後に続いて部屋を出る。その間際、正悟君は部屋の中を覗いた。
「直兄、薬ありがとう」
「どういたしまして」
にこりとして、直人さんが手を振ったが正悟君はそれを見ずに歩いて行ってしまう。
「お休みなさい」
私は直人さんに声をかけ、返事も聞かずに正悟君の後を追った。
庭の奥に位置する離れまで来ると、正悟君は突然足を止めた。それまで早足で歩いていた私は、止まり切れずにぶつかってしまう。
「直兄のように振舞えたらと、何度思ったか解らない」
「ショウちゃん?」
いきなり何なのだ。不思議に思って覗き込むと、正悟君と目が合った。
すると彼は困ったように微笑んで、私の肩に腕を廻して引き寄せる。何が何だか解らないままに彼の胸に顔を埋めると、少し早目の心音が耳に届いた。
「連れて行ってしまいたいに、決まってるじゃないか」
ぎゅっと抱かれ、そんなに力を入れたら傷口が開いてしまわないかと心配になったが、何を言っても正悟君には届かなかった。
「このまま強引にでも連れて帰ってしまえたらと思う。けど、そうもいかないよな」
彼は腕の力を緩めると、身体を離して窓の外に浮かぶ月を見上げた。
熱帯夜であるのに、ひとり涼しげな光を放つそれを見ていると、夏である事を忘れてしまう。
「この件が片付いたら、帰らなきゃいけないんだ」
蒼い光の中、暫しの沈黙を破って正悟君が口を開いた。
「いつ?」
「片付き次第。せいぜい、後二日くらいが限度だと思う。帰ったら忙しくなるだろうし、距離もあるから簡単に飛んで来る事もできないと思う」
「そう、なんだ」
「時間はない。だけど」
肩を落とした私を励ますように肩を叩き、正悟君は口角を上げて強気な表情を作った。
「絶対に納得のいく結果へ持っていく。もう二度と、麻美が苦しい思いをしなくて良いように」
だから心配しなくて良いよ。そう言うかのように彼は笑う。
それにつられて、私の口元も少しずつ緩んできて、ほんの少し、小さくだけれど微笑を返した。
「ありがとう」
私も頑張るね。
口にこそ出さなかったけれど、きっと伝わったのだろう。
額に落とされた柔らかい感触に、私は思わず声を上げて笑ってしまった。
翌朝、一部始終を見ていた啓さんに思う存分冷やかされてしまったのだが……気にしないことにした。
気にしたら負けだ。そう自分に言い聞かせて。
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