「ったく、啓兄のせいで余計な体力喰ったよ」
高い塀の間を歩きながら、正悟君は後ろ頭を掻いて苛々と言った。
私は慣れない下駄と、浴衣の裾に足をとられながら、彼の隣を一生懸命付いて行く。
「ショウちゃんもいちいち反応しなきゃ良いのに」
「んな事言ったってさぁ……」
下駄が石畳を叩く音が止み、正悟君が立ち止まると私も歩くのを止めた。
「そう言えば、足痛くない? 大丈夫?」
「んー? まだ大丈夫」
言いながら足を下駄から抜くと、親指と人差し指の間が赤くなっていた。これではすぐに痛くなってしまう。
これを見ると、正悟君は顔をしかめて私の足元にしゃがみ込んだ。そして暫らくして立ち上がると、彼は私の手を取って近くの蕎麦屋を指差した。
「昼も近いし、少し休もう」
「わあ、何だか雰囲気のあるお店だね」
開け放たれた入口から覗く店内は、簡素なテーブルと椅子を並べただけのごく簡単な作りである。
瓦屋根に薄そうな板の壁を見ていると、自分が江戸時代にタイムスリップして来たような錯覚に陥る。
「ここの蕎麦は絶品なんだ。この町に来る度に食べてるんだよ」
「へー」
「よう、坊ちゃん。久し振りだね」
元気に笑いながら、髪の毛のない店のおじさんが右手を上げて近付いてきた。
「おじさん」
正悟君は嬉しそうに笑って、おじさんに手を振り返す。
「なんだなんだ、可愛い嬢ちゃんじゃねえか。え?」
「でしょ? 俺のカノジョ」
お兄さん達に冷やかされるのは嫌がるくせに、自分で言うのは問題ないんだ。
平然と答える正悟君とは逆に、私は何となく照れ臭くなって俯いた。
「ほー。つい最近まで、兄ちゃんらの後ろをちょこちょこ付いて歩いていたと思ったら、今や恋人まで作っているとは……でかくなったもんだなぁ」
「これもおじさん達のお陰ですよ」
「かーっ、言ってらぁ!」
ケラケラと豪快に笑って、おじさんは正悟君の背中を叩いた。
結構な力で叩かれているらしく、大きな音と正悟君の苦笑いが何となく可笑しくて、私は思わず噴出してしまった。
「何笑ってるんだよ」
「ううん、何でもない」
本当に? と視線で訊ねられ、何でもないよと頷くが、どうも信用されていないらしい。
正悟君の顔に、不信感が滲んでいる。
「まあ良いじゃねえか。そんな事より、おいちゃんが美味い蕎麦を茹でてけっからよ!」
「おじさんが打ったんですか?」
「勿論よ。ここは手打ちを売りにしてるんだ」
おじさんは自慢げ筋肉が良く付いた太い腕を叩くと、私に向けて片目を瞑った。
「待っておいで。すぐに作ってくるからな」
「はい、楽しみにしてます」
そしておじさんは「おうよ!」と威勢の言い掛け声と共に、店の奥に消えて行った。
「蕎麦の実はやっぱり、下から運んで来るの?」
「いや、この町で作ってるよ」
そう言って、正悟君は店の裏手を指差した。
「ここから少し言ったところに、蕎麦畑があるんだ。今頃花が咲いてるんじゃないかな」
「本当に?」
輝くような緑の葉に純白の花を持つ蕎麦は、清純をそのまま表したようで、とても美しくとても可愛い。
色合いが涼しげで、夏の暑い時に蕎麦畑を見ると癒されるので、私の大好きな花だ。
「ここからそんなに遠くないし、食べたら行って……」
「見たい!」
そんなの決まっているではないか。
勢い良く手を挙げると、浴衣の袖が正悟君の腕に当たって、ぺし、と音がした。
「あ、ごめ……」
「大人しそうだと思ったら、意外に元気なんだな」
「す、すみません」
「褒めてんだから謝る必要はねぇよ」
もう一度「すみません」と言って座り直すと、おじさんは苦笑いして両手に乗せられたざる蕎麦をテーブルに置いた。
「世間では、『気にしなさすぎ』を責められがちだが、『気にしすぎ』も案外良くねぇもんだ。嬢ちゃんはもうちっと自分勝手になっても良いんでねえかと、おいちゃんは思うぞ」
「でも、自分勝手にやってると怒られちゃいますよ」
「そりゃ、いつもいつも自分勝手ならしかたねぇや。でもよ、嬢ちゃん。おいちゃんが思うに、嬢ちゃんはいつも周りに気を使ってきたんでないかい?」
「さっすがおじさん。良い勘だ」
ぱきん、と正悟君が箸を割る音が店内に響く。
「この先もずっと、そのままでいたいならそれでも構わねぇと思う。だがよ、行きたい道があるなら、たとえ誰に反対されようが突き進まねえと絶対に後悔するぞ」
おじさんは隣のテーブルに寄りかかり、腕組みすると神妙な顔付きで私を見詰めた。
自然と私も背筋を伸ばしておじさんに身体を向ける。
「嬢ちゃんは、一生続く鈍痛と、一瞬の激痛ならどっちが良い?」
「私……」
「ま、おいちゃんが口出しする事じゃあねぇか」
発しかけた言葉を遮って、おじさんは深く息を吐き出した。
「ほれ、早く食えよ」
おじさんは急かすように言うと、さっさと店の奥に言ってしまった。
「私……」
「おじさんの言う通りだ。早く食べよう、折角の蕎麦が乾いちゃうよ」
「……うん」
頷きながらも、私の思考はどこか宙を彷徨い、口に最初の麺を入れるまでにまた少し時間を要した。