恋風‐こいかぜ‐

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第55話 風の始まり


 店の裏から、町の外へ伸びる道を真っ直ぐ行くと、一面の緑と白が広がっていた。
「わぁっ」
「どう、下と大して変わらないだろ?」
 正悟君の言う通り、日本の田舎の風景とあまり変わらない。
 あえて違う点を挙げるとすれば、蕎麦畑が地上とは比べ物にならないほど広いことくらいだろうか。
「すごいね、端が見えないなんて」
 蕎麦畑の右から左まで見通そうとしても、畑の境より先に空にぶつかる。
 あまりに広すぎて、全てを見通すことができないのだ。
「どれくらいの広さがあるのかな」
「さあ。ただ、正面の山を半周しているから、かなり広いはずだよ」
「へー」
 相槌を打ちながら、私は蕎麦畑の向こうに聳える高い山を見上げた。
 大きさはおおよそ、蔵王連峰ほどはあるだろうか。とにかく大きな山である。
「山のこっち側、全部真っ白? 向こう側は?」
「向こうにはまた別の町がある」
「ほへー」
 ますます宮城と山形の間に隔たる蔵王と似ていると思った。
 感心して、ただ山を見上げるばかりの私に、正悟君はくすりと小さく笑った。
「なぁに? 何か可笑しい?」
「いや、別に」
「本当に?」
 何か怪しい。不信の眼差しで睨んでみるが、あまり効果はない様子。
 正悟君は苦笑いしただけで、あっさりと話題を変えてしまった。
「もう少し山に近づいてみる? 神聖な場所だから、山に入ることはできないけど」
 話を流されてしまった事が面白くなかったが、蕎麦畑の中に伸びる道を見ると、不機嫌な気持ちはどこかへ行ってしまった。
 まるで、神殿に続く参道のよう。
 何の飾り気もない、草が多い茂る細道だが、あの山が神聖な場であると思うだけで、気持ちが引き締まるから不思議だ。

「行ってみたいな。あそこに何かあるの?」
 強請るように正悟君の腕に手を絡ませ寄り添うと、彼はピクリと肩を震わせて、ほんの少し目を大きくした。突然くっ付いたので、驚いたのだろうか。
 しかし私も彼も、それについて特に何も言わなかった。
 代わりに、触れ合った手がふんわり優しく握られて、私の胸はきゅっとなった。
「この山には風神様が住んでいるんだ」
「風の神様?」
「そう、風の神と書いて、風神。神様の住む山だから、人間が勝手に入って行くことはできないんだよ」
「ふぅん」
 繋いだ手が引かれ、足を踏み出した。
 道の両側に咲き誇る白い花達を横目で見ながら歩いていると、不意にある事に気が付いた。
「あの山が風の始まりなの?」
「よく気が付いたね」
「だって、花の揺れる方向が同じなんだもん」
 山を中心に風が放射状に吹いていて、蕎麦は全て山とは逆方向に僅かに傾いている。
 これは確かに、いつも風が山の方向から吹いてくるという事になるだろう。
 それを見て、正悟君は「なるほど」と呟くと口元を綻ばせて山を見上げた。
「今日は風神様の機嫌が良いらしい」
「わかるの?」
「風が穏やかだろう?」
 確かに、揺れる花は心地よさげである。
 頷く私に、正悟君はにっこりと笑いかけた。
「もしかしたら、呼べば答えてくれるかも知れないよ」
「聞こえるかな?」
「俺が半人前の時ですら遠くの声が聞こえたんだ。風神様なら問題なく聞こえるはずさ。ひょっとしたら、この会話も聞こえているかもね」
 肩を竦めてふざけるように正悟君が言うと、風がほんの少し強くなった。
「やっぱり聞こえてた」
「わ、また強くなった!」
 翻る浴衣の裾を押さえて、駆け抜ける風から顔を背ける。

「なーんか挑発されてるような気がするんだけど」
「何それ」
 ようやく弱まった風に安堵したが、正悟君はそれを乱すような事を言う。
 これ以上無駄な発言をして、台風のような風が吹き荒れても困ってしまうではないか。
 そう思うが、風神様とやらの機嫌を損ねてはいけないので、決して口には出さない。
 黙ったまま睨んでみるが、正悟君自身が気付いていないので効果はないようだ。
「……へぇ」
「どうしたの?」
 これまでじっと耳を澄ましていた正悟君が、にやりとした。
 ちょっとばかり気味が悪い、かもしれない。
 そんな私の心情を知らない彼は、その笑みを湛えたままこちらに振り向いた。そして、
「え? ひゃ!」
 抱きかかえられたかと思うと、蕎麦畑の端が見えるほど高く飛び上がっていた。
「な、な、な……」
 何なの!
 しかしその声に唯一答えられる人は、そんな余裕などない模様。
「あんのモジャモジャが!」
 今までの笑みから一変して、正悟君の顔には怒りが滲んでいる。

 一体何事か。
 訊ねたかったが、正悟君の気迫に負けて声をかけることすらできなかった。


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