風見家の門を潜ると、庭の隅にお兄さん達三人組が集まって何やら話しをしているのが見えた。
「ただいま」
正悟君が声をかけると、三人は私達に気付いて振り向いた。
「お帰りなさい」
直人さんは笑顔で手を振り、大悟さんに目を向けた。啓さんもまた、大悟さんの様子を窺っているようだ。
私は勿論、正悟君もお兄さん達の視線にどんな意味があるか解っていないようで、私達は顔を見合わせると揃って首を傾げた。
疑問だらけの私達に構う事なく、直人さんは相変わらずのニコニコ顔を私に向けて声をかけてきた。
「気分転換はできましたか?」
「はい、あの……」
「それは良かった。こちらもですね、ちょっとした展開があったんですよ。ね、大悟」
「は、展開?」
そう大声を出して裏返ったのは正悟君だ。
彼はひとつ咳払いをして気を取り直すと、自分の兄へ振り返った。
皆の視線を受けても、大悟さんは特別意識する様子はなく、いつもの落ち着いた表情と口調で淡々と告げた。
「明日、橘さんを返しに行く旨を伝えて来た」
さらっと、何でもない事のように話す大悟さんに対し、私は「ええっ!」と大声を上げた。
「あ、明日ですか?」
「ああ、明日。本当は今日にでも返して欲しいのだろうが……無理はさせられないからな」
無理とは、やはり私の事だろうか。
充分な準備もないままにぶっつけ本番はキツイと思ったのかどうかは解らないが、それにしても明日だ。
あまり変わらない気がしないでもない。
「どどど、どうしよう」
もう大丈夫だと思ったのに、いざ状況が変わるとなると途端に動揺してしまう。
「まだ一晩ある。その間に心の準備をしておくことだ」
不安で手を震わせる私を気にする素振りも見せずに、大悟さんは素っ気無く言うと、私の横をすり抜けて門を出て行ってしまった。
私は何も返す事ができなかった。
返事は勿論、頷く事すら私にとってはハードルが高く感じて、ただ凍りつくしかできなかった。
「あの無愛想は直すべきだな」
寒々さを感じるほどの沈黙を破ったのは、啓さんの溜息。
吐息に乗せられた科白に、直人さんと正悟君が頷き同意を示した。
「本人に悪気がないのが何とも言えず……」
「というか、二人から何か言ってやってよ。兄ちゃんは俺の話なんかまともに聞きやしないんだからさ」
彼等の会話を耳で聞いても、私の脳は言葉の意味を理解する事を完全に放棄していた。
頭の中が他の事でいっぱいになってしまっていたのだ。
「とにかく、兄ちゃんには後で……麻美?」
「ショウちゃん……」
弱々しい声は湿っていた。
喉の奥から、言い様もない震えが競り上がってくる。
「私、自信ない……」
「何言ってるんだよ」
「だって、だって……」
私は弱い。
どんなに心を浮上させたとしても、その状態は決して長続きしないのだ。
ちょっとした事、例えば感情が篭っていない声を聞いただけで、すぐに闇へ引っ張られて落ちて行ってしまう。
こんな自分に、何ができるだろう。
簡単に落ち込んでしまうような弱い私に、一体何ができると言うのだ。
「私には何もないもの」
廻り廻って行き着いた答えは、とても悲しいものだった。
しかし、それ以外に当てはまる言葉もなく、私はそれに納得するより他にはなかった。
私は、どこへ行っても迷惑をかける。できない事、駄目な部分しか、私は持っていないのだ。
「何もない? そんなの有り得ないよ」
しゃくり上げる私に、正悟君は軽く肩を竦めた。
「何もない人が、誰かに好かれたりすると思う?」
「でも……」
それでも私には自信がない。
思い切り、自分を否定してしまいたいのだ。
しかし正悟君はそれを快く思わないらしい。
「少なくとも俺には、麻美は人にはないものを沢山持っていると思うよ」
そう言って、私を元気付けようとする。
しかし黙って下を向いた私に、正悟君は困ったような息を吐いた。
「……まあ」
重苦しく淀んだ空気に、澄んだ水滴を落とすように直人さんが口を開いた。
「真実は明日、確かめれば良いでしょう」
「そーそー、今あれこれ言い合っても腹の足しにもならないしな」
啓さんも直人さんの言う事に頷いて、胃の辺りを軽く叩いた。
「それにしても腹減ったな」
「雪菜さんが夕餉の支度を始めていましたよ」
「んじゃ、奇襲かけて来るか」
「あまりやんちゃをすると、また凍らされてしまいますよ」
直人さんの冗談――本気かもしれない――に、啓さんは「それは困るな」と言って首筋を掻きながら、二人は家の中へ入って行ってしまった。
庭に取り残された私は、同じく残っている正悟君と、暫し沈黙を分かち合った。
「……直兄達の言う通りだ。大切なのは、想像より真実なんだ」
弱い風が二人の間を通り過ぎ、その時ようやく正悟君が呟いた。
それは私にというよりも、彼自身に言い聞かせるような響きであった。
ぼんやりと見詰める私に、正悟君は振り返ると無表情だった口元を笑みに変えた。
「家に入ろうか」
何事もなかったように笑う正悟君に一瞬唖然としたが、それはそれでありがたい気もしたので、私は黙って頷く事にした。