恋風‐こいかぜ‐

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第60話 天満夜


 心の準備と言っても、何をすれば良いのか解らない。
 家族と対面した時の事を想像してみたが、最悪の状況しか思い浮かばなくて不安を増幅させただけだった。
 さて、どうするべきか。
 圧迫感をどうにかしたくて、宛がわれた部屋を抜け出した。
 暗闇を手探り、指先に乾いた木の硬い感触を確かめると、それを掴んで横へ動かすと、黒一色だった視界に、青白い光が差し込んだ。
 真夜中であるのに、空は薄明るい。月が出ているのだ。
「キレー……」
「そうだろ?」
 思わず漏れた溜息に、返す声があった。
 振り向くと、いつの間にか正悟君が私の隣に立っていて、細く開いていた雨戸の隙間を更に大きく広げて廊下を明るくした。

「まだ起きてたの?」
「麻美こそ、寝ないの?」
「何だか眠れなくて」
 月光に照らされた正悟君が、なぜだか別人のように見えてしまった。
 驚愕を誤魔化すため、努めて明るく笑ったのだが、彼は少し怪訝そうな顔をした。この時私は、自分の笑顔が不自然だった事を悟った。
「明日の事?」
「……うん」
 ズバリ言い当てられたら、頷く他ない。いきなりしゅんと萎れてしまうと、正悟君は少し慌てた様子で私の頭を撫でた。
「俺と同じだ」
 そして何度か髪の毛を梳いた後、正悟君は突然思い付いたように人差し指を立てた。

「折角こんなに綺麗な月が出ているんだ。屋根に登ってみない?」
 私の返事を聞く前に彼は自室へ戻り、すぐに出てきたかと思うと畳んだ布を私の前に差し出した。
「ちょっと持ってて」
「え? わ……!」
 一連の行動の意味を理解する前に、私は正悟君に抱きかかえられていた。そして一瞬の内に私達は屋根の上浮かんでいた。
 黒く光る瓦の上に降ろされると、予想したより冷たい感触に驚いて思わず彼の腕にしがみ付いた。
「わ、すごい」
 見渡す限りに月明かりが満ちている。
 近所の家々の瓦屋根を銀色の光が照らして、静かな夏の夜を演出している。――思わず息をするのを忘れるほどの美しさだ。

「どうぞ」
「ありがとう」
 正悟君は持って来た布を屋根の上に敷いて、私に座るよう勧めた。私は頷いて布の半分に座ると、残りの半分に彼が腰を降ろす。
「月明かりってこんなに明るいんだね」
「いつもじゃないけど、時々あるんだ。色々な条件が重なって、空が薄っすら明るい時が。こういう夜の事を『天満夜あまみつよ』と言うんだよ」
「あま?」
 聞いた事のない単語だ。首を傾げる私の前で、正悟君は指で空中に字を書いた。
「天が満ちる夜と書いて天満夜。空が光で満たされている様から、そう呼ばれるようになったんだ」
「へぇー」
 綺麗だな、と思いつつ、私は再び空を見た。
「素敵……」
 無意識に零れた言葉だが、本当に、心からそう思う。
 綺麗な夜空に、隣に好きな人。溜息が出るほど幸せなシチュエーションに、私はうっとりと目を細めた。
 こうしているだけで、不安と焦りに満たされていた心が次第に落ち着いて、潤っていくのが感じられる。

 暫しの沈黙。
「私ね、明日の事を思うと怖くて怖くて仕方がないの」
 訪れた静けさに促されているような気になって、不意に唇を開いた。
 指先に触れた正悟君の着物を握り、月から目を逸らしたが、黒い屋根に反射した月光が眩しくてそこからも目を逸らした。
「私自身の事は勿論だけど……ショウちゃんの事をどう言われるかとか、考えただけで手が震えてきちゃう」
「え、俺?」
 予想外だと言うように、正悟君は驚いた顔をした。それに対し、私は唇を尖らせ睨み上げる。
「ショウちゃんが私をここに連れて来たんでしょ。それを何とも思わないはずがないじゃない!」
「そ、そうか」
「そうだよ」
 そう言えばそうだった……と彼は頷く。しかし、それ以上気を乱すような事はない。
「落ち着いたりして、珍しいね。どうしたの?」
「失礼な」
 半分呆れたような視線を向けられて、私は「あ」と呟いた。
 今の言い方では、まるで「いつもは落ち着きがないのに」とでも言っているようではないか。自分が言われたとなると……確かに失礼だと思うに違いない。
 しかし、一回出てしまった言葉は飲み込めない。自分でもわざとらしいと思う笑いで誤魔化そうと試みるも、正悟君の目に不信の情がより込められただけだった。
「……ごめんなさい」
 そんなつもりじゃなかったの。
 言い訳は心の中に留めて、今は黙って頭を下げよう。

「ま、良いけど」
 軽く額を小突かれて、私は思わず身を引こうとした。しかし正悟君に腕を掴んで引き寄せられ、意図せず彼の胸に顔を埋める体勢になる。
「麻美」
 途端に顔が熱くなるのを意識しつつも、正悟君の手に促されたら逆らえない。躊躇いながら顔を上げると、色素の薄い彼の瞳が月光を浴びて切なげな表情を浮かべていた。
 それを見ると、なぜか胸が締め付けられるような苦しさが湧いてきて、堪らず息を詰まらせた。
「こうしてじっくりと顔を見るのも、暫らくできなくなるんだな」
 そっと頬を撫でられ、反射的に目を閉じると正悟君が微かに笑った気配がした。
「次に会えるのはいつ?」
 目を開けるのが何となく億劫で、瞼を閉じたまま訊ねると、正悟君は少し間を置いて答えた。
「暫らくは忙しいと思うから、こっちに来れるのは……早くても冬かな。ゆっくり会えるようになるのは、四月以降になると思う」
「そんなに?」
「うん。色々と忙しい時期だし、そうそう抜けられないんだ」
 ようやく目を開けると、正悟君が頷いたところだった。眉を寄せ、申し訳なさそうな表情をしている。
 ……そうか、暫らく会えないんだ。
 そう思うと、じわりと視界が滲んでくる。泣きそうになっている事を悟られないよう、正悟君から目を逸らす。そして落ち着いてきた頃にもう一度彼の顔を見上げた。

「それなら私が会いに行く。そのために、明日は頑張るから」
 震えそうになる声を抑えて、無理矢理笑顔を作って宣言した。
 正悟君にばかり来てもらうから、会える日が少なくなるのだ。それならば私が行けば良い。
 お母さん達に彼との事を打ち明けるのは怖いけれど、私が頑張らなければ堂々と会いに行く事もできない。
 彼は最初、目を大きくして驚いた顔をしたが、次の瞬間には目元と口元を優しげに緩めて、私と額を合わせた。
「解った。汚名返上できるように、俺も頑張る」
「……うん」
 合わさった額から声が響いてくる感覚がくすぐったくて、思わず笑ってしまった。
 すると正悟君も一緒に笑って、額を離した。
「元気出た?」
「うん」
 ありがとう、と言おうと思ったがふと思い立って、膝立ちになって正悟君に向き直る。
 そして一度は離れた顔を近付け、彼の薄い唇に短く口付けた。
「えっと、お礼」
 驚きのせいか呆けた顔の正悟君に、私は照れを誤魔化すように少し大げさに笑って見せた。
 しかし、彼は目を瞬かせるだけで一言も声を発さず、指一本動かさない。

「あの、ショウちゃん?」
 流石に心配になってきて、目の前で手をひらひらと振ってみる。
「あ、ああ」
 ようやく一時停止を解いた正悟君だが、動きは何となくぎこちない。余程驚いたらしい。
 また幾度か瞬きして、私の顔を見ると彼は今更ながら顔を赤らめた。
「麻美、今……」
「反応遅すぎ」
 ぷっ、と小さく噴出す私に、正悟君は複雑そうな表情を浮かべて頭を掻いた。
 それから向き合って座っている私の背中に手を当てると、ぐいっと引き寄せた。
「え、ええと」
「もう一度」
「へ?」
 私だって緊張や照れがなかった訳ではない。混乱に陥りかけた私を、正悟君はじっと見詰めて言った。
「もう一度して」
「わ、私から? キスするの?」
「うん」
 顔色を変えず、正悟君は頷いた。それに対して、私は固まってしまっている。
 だって、私からキスしろだなんて……。
 さっきは雰囲気や勢いもあったからできてしまったが、今はお互いに意識してしまっているし、先程の照れも残っているから思い切らないと多分できない。
 どうしようかと躊躇う私に、彼は強請るように目を瞑って顎を上げた。
 これは、断れない雰囲気だ。

「……もう、しょうがないなぁ」
 本当は胸が痛いくらい心臓がドキドキしているのに、それを感付かれないようにわざと何でもない風な口を利く。
 意地を張る自分に内心苦笑しつつ、私はそっと顔を近付けて、先程よりも少し長めにキスをした。


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