恋風‐こいかぜ‐

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第62話 突風とオムライス



 お父さんは、仕事が一番の友達で、言葉を交わすのは一週間の内で数える程度。
 いつも疲れているから、休日に一緒にどこかへ出かけるなんて、滅多にない。

 お母さんは、いつも何かと口煩くて厳しい。
 嫌いではないけれど、色々と制限を課してきて、少しでも失敗すると怒り出すからちょっと怖い。

 お兄ちゃんは家の中で一番の理解者。
 心配してくれるのはありがたいのだけれど、時々鬱陶しく感じてしまっているのは、私だけの秘密――だった。


 幼稚園の時まで、他所の家に遊びに行くなんてなかったから、自分の家が普通なのだと思っていた。
 だが、実際に見てみると、まるで別世界。何もかもが違っていた。
 最初に違いがある事を知ったのは、小学一年生の夏休み。仲良くなった友達の家に、初めて遊びに行った時だ。


 ピンポーン。

 見上げるほど大きな門の、太い柱に付けられた呼び鈴を、ゆっくり押した。
 押してから、果たしてこの家で合っていただろうかと心配になったが、分厚い木の表札に掘られた『天野』という字を見て、自分が間違っていない事を知ってホッと胸を撫で下ろす。
 緊張で身体を強張らせながら待っていると、程なくして門の中で戸が開けられる音がした。それからすぐに、目の前の門が開かれた。
「いらっしゃい、待ってたのよ」
 満面の笑顔で迎えてくれたのは、私を招待した本人。天野星来ちゃん。
 星来ちゃんは門の外で立っている私の手を引いて中へ入れると、門を閉めて中から鍵を掛けた。
「最近ドロボーが出てるんだって。麻美の家は大丈夫?」
「うん、家はお母さんが心配して見張ってるから」
「そうなの。家はお父さんがタイサクを考えてるのよ」
「ふうん」
 あの門の鍵も、星来ちゃんのお父さんが最初に言い出したのだそうだ。
 面倒だけど、家族の安全の方が大切だから、と言っていたらしい。

「おかーさん、麻美が来たわよ!」
「こ、こんにちは」
「あらあらいらっしゃい。暑かったでしょう? どうぞ上がって、理奈ちゃんも来てるのよ」
 私のお母さんは他人を家に上げるのを嫌っているから、どんなに嫌がられるだろうと身構えていたら、出てきた女性はわざわざ膝を着いてにこやかに迎え入れてくれたので拍子抜けした。
「何してるのよ、早く上がったら?」
「う、うん。お邪魔します」
「はいどうぞ。ふふ、礼儀正しいのね」
 見た目も若いし、お母さんと言うよりお姉さんと言った感じだ。
 背中を押されて大きなテーブルのある部屋へ通されると、テレビの前にどどんと置かれたソファに座らされた。

「お、何だ何だ、今日はお客さんが二人もいるのか」
 お茶の用意をする星来ちゃんのお母さんの後姿を、ソファに座って眺めていると、突然男性の声がして驚いた。
 声のする方を見ると、ガラスが嵌め込まれたドアから赤茶っぽい髪色の男性が顔を覗かせている。
 その後ろから、見覚えのあるくるくるのチョコレート色の髪の毛が一房、床に向かって垂らされた。星来ちゃんの一番の仲良し、時瀬理奈ちゃんだ。
「何だ、麻美じゃん。遅かったね」
「え、えっと」
 どちらに何を話せば良いのか解らずあたふたしていると、男性が私の傍に来て床に腰を降ろした。
「星来の新しい友達かい?」
「そうよ、同じクラスなの。ホラ、麻美」
 左隣から星来ちゃんに脇腹を突かれ、ようやく何をすれば良いのか理解する。
「橘麻美です。よろしくお願いします」
「星来のお父さんの、天野和也です。どうぞよろしく」
 天野家はお父さんまで若々しい。それだけでなく、物凄く格好良い。
 美男美女のご両親が羨ましくて、私は思わず息を止めた。
「カズおじさんカッコイイよね」
 いつの間にか右隣――と言っても肘掛だが――に腰かけていた理奈ちゃんが、私の気持ちを代弁してくれたので思い切り頷くと、何が可笑しかったのか知らないが、その場は暫し明るい笑いに包まれた。


「麻美ちゃん、良かったらお昼ご飯食べて行かない?」
「え、でも」
「お家でお母さんが待ってるかしら?」
「いいえ、今日は誰もいなくて……」
「なら遠慮しないで食べて行きなさいな。一人で食べるのって寂しいじゃない」
 にこにこと、星来ちゃんのお母さんは当然の事のように言う。私は正直どうしたら良いか解らず、両隣の星来ちゃんと理奈ちゃんに助けを求めた。
「麻美は何食べたい?」
「あたしアレアレ、アレが良いな」
「アレって……ああ、アレね」
「オムライス!」
 二人の声と人差し指が私の目の前で重なった。
 助けられるより、更に困惑させられる事になり、私は心の中で頭を抱えた。

「ただのオムライスじゃないのよ」
「中にチーズが入っててね、スプーンで救うとトローッて」
「んーっ、思い出したら食べたくなってきちゃった。お母さん、私もオムライスが良い!」
「はいはい。麻美ちゃんも同じもので良いかしら?」
 結局流されて、この日のお昼はオムライスをご馳走になった。
 星来ちゃんと理奈ちゃんが言うように、中のチーズがとろけてチキンライスに絡まって、その美味しさに感動したのだった。


 あの時の衝撃は忘れない。
 オムライスの美味しさも然る事ながら、あの家の雰囲気は印象的だった。
 他人も巻き込んで暖かい人達がいる事に、何より驚いたのだ。
「その後も何度もお家にお呼ばれして、その度に家と天野家の違いに驚かされた。でもそれも、条件の違いだと思ったから、休みの日に父さんがどこへも連れて行ってくれなくても、服を汚してお母さんに怒られても、仕方ないんだって思って、寂しくても我慢して耐えて来た」
 仲良し三人組が四人組になって、幸せそうな家族の様子を見せられても、私の幸せはこれなんだと思うようにしていた。
 勉強して沢山知識を身に付ける事が、テストで毎回百点を取る事が、試験で一番を取る事が、そうしてお母さんやお父さんに褒められ認められる事が、私にとって何よりの幸せなのだ。
 そう思い込むようにしていた。けれど、

「ショウちゃんに会って目が覚めた。『私の人生はどこに行ったの?』って」
 風が吹いたようだった。
 凝り固まった考えが解され、風に流されていく。その時の爽快感は形容しがたい。
「私は『私が幸せな人生』を歩みたい。それが例え、不安定な職であったとしても、狭き門だとしても、私は挑戦してみたいの!」
 髪の毛が風に攫われていく。
 一歩踏み出すと、両足に空気の渦が纏わり付いているのが解った。
「こんなに真剣に願ったのは初めてなの」
 胸の前で両手を組むと、そこにも空気の流れを感じられる。
「お願い、生きさせて。私、変わりたい!」
 叫んだ声は風を呼び、正面にいたお母さんの髪を吹き上げて逆立たせた。

 興奮していたせいか、息が切れている。
 肩を上下させて息を整えながら斜め後ろを見ると、驚いた顔をした正悟君が真ん丸な目で私を見詰めていた。
「……それがあなたの気持ちなのね? 嘘偽りはない?」
「ありません」
 乱れた髪を整えながら、お母さんが訊ねた。
 正面に向き直って頷くと、また弱い風が吹いていくのが感じられた。
「解ったわ」
「へ?」
 家の灯りだけの、暗い庭で、お母さんの微笑みを見た。
 一つ二つ怒られると思っていたから、突然の事に思わず可笑しな声を出してしまう。
「さっき、お兄ちゃんには八つ当たりしちゃったけど、本当は解っていたの。麻美に元気がないのはお母さんのせいだって」
 そして二歩、三歩と歩み寄り、組んだままの私の手にそっと触れた。
「これまであまり、やりたい事をさせてあげられなくて、ごめんなさいね。今度からは好きな事を思いっ切りやりなさい。ただし、お母さんは責任を負いませんよ?」
 お母さんの両手にぎゅっと力が込められ、強い口調で告げた。その眼差しは、いつになく優しい。

「母さん、どうしたんだよ……槍でも降って来んじゃね?」
「お兄ちゃんは黙ってなさい」
 ぴしゃりと叱られ、お兄ちゃんは慌てて口を塞いだ。
 しかし、お兄ちゃんの驚きには、私も共感できる。だって、あれ程までに頑固だったお母さんが……
 開いた口が塞がらないとは正にこの事。ポカンと口を開けっ放しにしている私に、お母さんは困ったように眉をひそめた。
「まったく、だらしないんだから。麻美!」
「は、はいっ」
「あなた、その子の事が好きなんでしょ?」
 その子、と言って目をやった先には正悟君。
 唐突に何を。言葉を失っている私に、お母さんはクスリと笑った。
「お母さんがお父さんと出会ったのも、今の麻美と同じくらいの年頃だったかしら。あの時はお父さん……あなたのおじいちゃんが許してくれなくて大変だったのよ『お前にはまだ早い!』ってね」
 思い出話を楽しそうに語るお母さんの表情は、まるで少女のよう。
 おじいちゃんの口真似をしてクスクス笑って、私の髪を撫でてコツンと額を合わせた。

「お父さんの説得は、私に任せて。あなたはあなたの恋愛を頑張って」
 遠距離なんでしょ、とどこまで知っているのだと問いたくなった。
 恐る恐る振り向くと、正悟君は先程よりも驚きの色を濃くして私達を見詰めている。
「あなた、お名前は?」
「あ、風見正悟です」
「そちらの子は?」
「風希です」
「そう、よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
 深々と頭を下げる正悟君と風希。
 不意にお母さんの後ろを見ると、取り残されたお父さんとお兄ちゃんが呆然と突っ立っていた。
 それに気付いているのかいないのか――恐らく後者である――、お母さんはまた私の頭を優しく撫でた。
「隠していても、やっぱりあなたは風の子なのね」
 そして耳元に口を近付け、そよ風のような小さな声でそっと囁いた。

「私も風使いの血を引いているの」

 今、何と?
 お母さんも風……風使いの…………
「ええーっ!?」

 突風が吹き荒れた。


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