「あなたと初めて会った時は、本当に驚いたわ」
「いや、そうは見えませんでしたよ」
驚きよりも、怒りの色の方が強かった。
麻美の母親と初めて顔を合わせた日を思い出し、俺は思わず身震いした。
それほどまでに迫力満点で、ある意味鬼より怖かった。
「わたしの方こそ驚きました。まさかあなたが……」
余所行きの一人称を使うと、サトル兄さんと麻美が揃ってこちらを向いて目を引ん剥いた。
何もそこまで驚かなくても……。
父親はというと、状況について行けず、ただポカンと口を開けて呆然と突っ立っている。
母親は、兄妹と旦那の様子を横目で見て、可笑しそうに笑い出した。
「……ご家族には?」
「主人には話したつもりだったけれど」
「全て、もれなく、寸分の狂いもなく?」
「少しくらい脚色したかしら? 随分昔の事だから、よく覚えていないわ」
あっけらかんと、何でもない事のように話す母親に唖然としてしまう。
そっと盗み見た父親の顔の間抜けな事。大きな体格をしているのに、威厳も威圧感もすっかりなくなってしまっている。
「あの……」
「うん?」
横から腕を引っ張られて振り向くと、麻美が困惑をたっぷり含んだ顔で見上げていた。
「私、よく分からないんだけど。お母さんが、その……風使いって」
全く何も知らない父や兄を気にしてか、少し躊躇いつつ麻美は疑問を口にする。
「『お母さんが風使い』というのは、ちょっと違うかな」
「え? でもさっき、風使いって」
「『風使いの血を引いている』けれど、試験を受けていないから風使いではないんだよ」
そう話すと、麻美はあれ、と首を傾げた。
「お母さんの事、知ってるの?」
「会った事はなかったけど……噂で聞いていたから」
「嫌だわ、そんなに広まっているの?」
恥ずかしそうに、母親は頬に片手を当てた。
俺達の間で、彼女の事を知らない者はいない。
ただし、『橘麻美の母親』では誰にも通じないのだが。
「『赤城様のお嬢様』と言えば、誰のどんな話しなのかすぐに解る」
「赤城って母さんの」
「旧姓だよね」
顔を見合わせ、きょとんと首を傾げる仕草はまさに兄妹。息が合っている。
「麻美はもう一人、赤城を知っているはずだ」
「え?」
「それもつい最近……昨日会ったばかりだ」
「昨日?」
思い出せずに拳を顎に当てて考え込む麻美を尻目に、俺は空を仰いで声を上げた。
「あの馬鹿、今頃どうしてるかな。死んでなきゃ良いんだけど」
「ばか?」
「それにしてもあのモジャモジャ頭、どうにかならないのかな。あれじゃまるで、どっかの飲食店のマスコットだよ」
「モジャモジャ……あっ、モジャモジャさん、赤城さんだ!」
パン、と両手を叩いた麻美のすっきりした顔の前に、細い人差し指が立てられた。
「思い出した? 目立つくせにすぐに忘れられるんだよな。仕方ないか、あいつ馬鹿だから」
「馬鹿とかそういうの関係あるのか?」
サトル兄さんが静かに突っ込む。
それに対し、俺はただ「救いようのない馬鹿なんです」と自分でも答えになっていないと解る答えを返した。
「解るかな? 赤毛のモジャモジャ頭なんですけど」
「……雄太君?」
「正解」
良かったな、馬鹿。お前が敬愛する叔母さんは、お前の事を覚えていたぞ。
心の中で語りかけると、いつから聞いていたのか赤城のべそべそと汚い鼻声が風に乗って聞こえてきて、思わず顔をしかめた。
あいつ、ただの馬鹿じゃなく、人の会話を盗み聞く変態でもあったのか。
「お母さん、赤城さんとどんな関係があるの?」
「雄太君は私の甥。兄の息子なの」
「じゃあ、私の従兄弟ってこと?」
「そうなるわね。麻美が生まれてからはほとんど会っていないけれど」
懐かしむように、母親は目を細めた。
仰いだ空の向こうから心地よい風が吹いてくる。その風を一身に受けて、彼女はそっと目を閉じた。
そして目を開けると、麻美、サトル兄さん、そして自らの旦那へと視線を走らせた。
「今度皆で会いに行きましょう。お祖父ちゃんが許してくれたら、になるけれど」
「お義父さん? 亡くなったんじゃなかったのか?」
ここでようやく、父親が言葉を発した。
瞳にはまだ動揺が色濃く残っているが、何とか物を考えたり理解出来るようになったようだ。
「あら、そんな事言ったかしら? 父は相変わらず元気だそうよ。もう何年も会っていないけれど」
ニコニコ。そんな擬音が似合う笑顔に、父親はまたも言葉を失ったようだった。
「お父さんと結婚した時、駆け落ち同然だったから。……父とも、結婚をめぐって喧嘩したまま別れてしまったの」
「それ以来会っていないの?」
「ええ」
麻美の瞳が、悲しそうに揺れる。
見ていられなくて、俺は口を開いた。
「孫の顔が見たいと、じい様は仰ってましたよ」
いつだったか、赤城と一緒に、山に篭るじい様の元を訪ねた時に言っていた。
娘と、その夫と、まだ見ぬ孫達に会ってみたい。
昔そうしていたように、娘と女の孫には好きな着物や髪飾りを買ってやりたい。
娘の夫と、男の孫は成人した頃だから、月でも見ながら酒を飲み交わしたい、と。
「私、お祖父さんに会ってみたいな」
ぽつりと麻美が呟いた。
「頑固だけど、良い人だよ。雄太相手だと殴ったりするけど、女子供には優しいし」
ふと脳裏に浮かんだじい様は、幼い頃から幾度も見てきたくしゃくしゃの笑顔を湛えていた。
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