恋風‐こいかぜ‐

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第64話 嬉しい気持ち


 険悪な雰囲気はすっかり消えて、お母さんが纏っていたピリピリした空気も、嘘のようになくなってしまった。
 いまいち状況に付いて来れなかったようだが、お兄ちゃんはそれなりに楽しんでいたらしい。正悟君の背中を叩きながら、二人共笑顔で会話している。
 お父さんはと言うと、まったく何も解らずに、ただ呆然としている。後でお母さんと喧嘩にならないか、とても心配だ。
 気を揉んでいると、私の隣に風希がやって来て肩口に頬を摺り寄せてきた。
「あれ、いつの間に降りて来たの?」
「ん? 何だ風希、どうした?」
 ここに来る時、風希は雲上に待機するよう正悟君が指示していたのを思い出す。
 こうして降りてきたという事は、上で何か事件でも起きたのでは?
 途端に心配になって正悟君を見る。彼は風希の話しを聞くと、急に顔色を悪くした。

「やっべ、もうそんな時間なのか!?」
 リビングの窓ガラス越しに覗いた壁掛け時計は、間もなく十時を指そうとしている。
 現在の時刻を知ると、正悟君は更に慌てた様子で私達に振り向いた。
「夜も更けて参りましたので、本日はこれにて失礼致します」
「まあ、もう門限? 早いのね」
 お母さんの意外そうな表情に、正悟君は苦笑した。
「明日、改めてご挨拶に伺います」
 そして私に目を向けるとニコッと笑って「おやすみ」と唇を動かした。
 直後、庭の空気が渦巻いて、思わず目を瞑った一瞬の内に正悟君と風希の姿は、跡形もなくその場から消え去っていた。

「な、何だったんだ……」
 正悟君が帰って、最初に口を開いたのはお父さんだった。
 大きなお腹を上下させ、お化けを見た直後のような顔のまま、誰もいなくなった芝生を見詰めている。
「可愛い子でしょ? 麻美の恋人なのよ」
「恋人って、お前、麻美はまだじゅ……」
「私は麻美と同い年で家を出たわ。あなたと一緒になるために」
 にこにこ微笑んだまま、お母さんは何でもない事のように言った。
 その笑顔に、お父さんは黙って下を向いてしまった。
「それにしても、麻美。あなた良い人を見付けたわね。あの子、由緒あるお家のご子息なのよ。その上、あんなに良い子なんだもの。お父さんもきっと気に入るわ」
 初めて正悟君と顔を合わせた時とは比べ物にならない位、最早別人であるかのような態度の違い。
 それに戸惑うのはお父さんだけではない。嬉しいけれど、私だって困惑しているのだ。

「反対されるかと思ったのに……」
「あの子がいつまでも、頼りない半人前でいるのなら断固反対したわよ。でも、もう一人前でしょう? なら、きっと大丈夫よ」
 こんなに肯定的なお母さんは珍しい。
 しかも、屈託のない笑顔で「大丈夫よ」だなんて、生まれてこの方見た事がない。
 驚きのあまり言葉が出ない私の頭を軽く叩くと、お母さんは両掌を叩き合わせた。
「さあ、お祖父ちゃんに手紙でも書こうかしら。お父さん、いつまでもボーっとしてないで、あなたも一言くらい書いて頂戴ね」
 そう言い残すと、お母さんはさっさと家の中に戻ってしまった。
「待ってお母さん、私もお手紙書きたい」
「オレもー」
 手紙を書くと理由を付けて、未だ黙って庭に突っ立っているお父さんを置いて、逃げるように家の中に入った。
 玄関で靴を脱いでいると、隣でお兄ちゃんがボソッと呟いた。
「正悟少年、良い奴だな」
「でしょ?」
 嬉しくなって顔を上げた私に、お兄ちゃんは軽くでこピンした。咄嗟に両手で額を覆って、痛くもなかったけれど痛そうな顔をして睨み上げる。
 そんな私に、お兄ちゃんは口の端をニッと上げた。

「兄ちゃんに少年の事を話さなかったのは減点な」
「何それ」
 意味解んないよ、と唇を尖らせても、正悟君を気に入ってくれて嬉しい気持ちは変わらなかった。


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