「おはようございます」
窓の外から声がして、網戸の向こうを見ると、正悟少年が爽やかな笑顔を浮かべて立っていた。
「よう」
「ショウちゃん、おはよう!」
朝食の後片付けを手伝っていた麻美が、パタパタとスリッパの音を響かせて窓際に駆け寄り、満面の笑顔を少年に向けた。
「上がってけば?」
「折角ですが、時間があまりなくて……」
「帰っちゃうの?」
申し訳なさそうに眉を寄せた少年を見詰めて、麻美は悲しそうに口角を下げた。
「それじゃあ麻美、見送りに行ってやったらどうだ?」
「うん、そうするね」
悲しそうな表情から一転、麻美は元気に頷いて、エプロンを外して台所に消えて行った。
「色々と世話になったな」
「こちらこそ、お世話になりました」
ひとつ礼をして、少年はオレを真っ直ぐに見上げた。
「今度はゆっくり遊びに来いよ。母さんも歓迎してくれるだろうし、父さんは……まあ、まだ納得してないようだけど、どうにかするさ」
さっきまでソファで寛いでいたのに、いつの間にかいなくなっていた父さんに苦笑しつつ、片目を瞑って右手の親指を立てた。
「はあ」
窓際で談笑するお兄ちゃんと正悟君の声を遠くで聞きながら、私は溜息を吐いた。
「正悟君来てるの?」
「うん。でも、すぐ帰っちゃうんだって」
「あらそうなの。残念ね、もっと沢山話しをしたかったのに」
「そうだね」
どんなに堪えようとしても、視界が滲んでしまう。
「馬鹿ね、何を泣いているの」
「だってぇ……」
悲しいものは悲しいのだ。
次はいつ会えるのか。果たして本当に次があるのか。
正悟君を疑うつもりはないが、連絡先すら解らないのだ。不安になるなと言う方が無理と言うもの。
次から次へと溢れてくる雫を必死に拭うも、一向に止まる気配がない。
早く戻らなければならないのに。
時間がないから、少しでも長く一緒にいたいのに。
こんな表情では出るに出れない。
自分で自分の感情がコントロールできずに困っていると、お母さんはまた「馬鹿ね」と仕方なさそうに溜息を吐いた。
「風見君を信じてあげなさいよ。あの子がそんなに簡単にあなたを忘れると思う?」
それは、想像し難い。
決して妄想とかではなくて、正悟君を取り巻く人達や彼の性格を思うと、そんなことはあり得ないとしか思えない。
頭を振ると、お母さんは口元を綻ばせて私の頭に手を乗せた。
「じゃあ、何を不安がる必要があるの」
そして、「もしもの事があったら、お母さんが懲らしめてやるんだから」と冗談交じりに笑って見せた。
「さあ、時間がないんでしょ? 早く行かなくちゃ」
赤いエプロンを外して、私のエプロンの隣にかけると、台所の出口に立って振り返った。
「うん」
目尻に溜まった雫を拭って、それを最後の涙にする。
多分、目は赤くなってしまっただろうけど、気付かない事にしてお母さんの後に続いてリビングへ戻った。
「ショウちゃん、お待たせ」
玄関から外へ出ると、リビングの窓からお母さんとお兄ちゃんが顔を出した。
「風見君、これから忙しくなるんでしょ? 次はいつ頃来れそうかしら?」
「そうですね……三月頃には少し暇が出来るかと思います」
「そう、それじゃあ私達が遊びに行っちゃおうかしら。一緒にご飯食べるくらいできるでしょ?」
「はい、いつでもお越し下さい。部屋も余っておりますので、お泊りも是非」
社交辞令のようにも聞こえる文句だが、けれども、そうではないと思わせる響きが、彼の言葉にはあった。
寂しい悲しい気持ちばかりが占めていた心が少し落ち着いて、ふわっと暖かくなる。
そして、知らず知らずの内に唇が弧を描いていた。
「ご主人にもよろしくお伝え下さい」
「ええ、解ったわ。気を付けてね」
「はい、ありがとうございます」
「そこまで送って来るね」
門へ向かって歩き出した正悟君の後を追いながら、窓際で手を振るお母さんとお兄ちゃんに振り向いた。
首を戻す間際、視界の端、二階の窓からお父さんがこちらを見下ろしているのが見えた。
私は気付かないフリをしたけれど、口元に零れる笑みを押さえる事は出来なかった。
「どうかした?」
「ううん、何でもない」
歩きながら正悟君が首を傾げるが、私はただ首を振った。
ここにお父さんがいたなら、きっと、恥ずかしがってしまうから。
「素直じゃないんだから」
少年を見送った後、母さんは溜息混じりに呟いた。
そして、窓から身を乗り出して空を見上げた。
「そんな所で手を振ってないで、こっちで一言くらい話せば良かったじゃない」
「え、父さん?」
一緒になって見上げたが、そこに人の気配を感じる事は出来ない。
「変な意地張っちゃって。子供なんだから」
母さんはそう言って肩を竦める。
呆れたような口調だが、どこか嬉しそうな声の響きに、オレも思わず頬を緩ませた。
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