恋風‐こいかぜ‐

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第66話 恋風(完)


 いつもの公園の、いつもの遊歩道を抜けた先にある、いつもの場所。
 まるで二人だけの秘密基地のようだったこの広場だけれど、明日からはまた、素通りする事になるのだろう。
「何だか寂しくなるね」
「ごめん」
 何の気なく呟いた科白に、正悟君の顔が僅かに歪んだ。
「どうして謝るの? 忙しいのはショウちゃんのせいじゃないし、そもそも悪い事じゃないでしょ?」
 考えなくても解ること。
 そこで駄々を捏ねるほど、私は子供ではない。
 ただ、寂しい。その気持ちを唇が語っただけなのだ。

「麻美、これを」
 そう言って、正悟君は私の前に拳を差し出した。
 反射的に掌を出すと、その上に固い感触が落とされる。
 一体何を……
「これ……!」
 自分の目を疑った。
 透明な光を放つ、水のように透き通ったそれに見覚えがあったのだ。
 初めて正悟君と擦れ違った日、この公園で拾った、あの水晶だ。
「これって大切なものじゃ……」
「ああ、大切だよ。麻美のために用意したんだから」
 正悟君はズボンのポケットを探り、全く同じ見た目の石を取り出した。
 二つの水晶を近付けると、ほんの少し石が光ったように見えた。

「お揃い?」
「そう、お揃い。離れていても、いつも通じ合えるように。俺の父さんも昔、母さんに贈ったらしいんだ。気障臭いと思っていたけど……親子だな。同じ事をするなんて」
 苦笑しつつも、その目は温かかった。
「寂しかったり、不安な気持ちにさせてしまう事もあると思う。そんな時はこれを俺だと思って語りかけて欲しい。その気持ちはきっと、俺に届くから」
「ショウちゃん……」
 きつく石を握り締め、私は唇を固くした。
「好きだよ」
 そして、降り注ぐ柔らかな温もりを唇で受け止めて、この耳に大好きな声を焼き付けた。
「私だって……大好きだよ」
 正悟君の首にしがみ付き、精一杯の「好き」を伝えて、私は精一杯の笑顔を彼に贈る。
 ほんの少し滲んだ視界で、彼はいつも通りの、いや、いつも以上に優しい微笑みを湛えて私を見詰めていた。

 ああ、これならきっと大丈夫。
 離れても、彼を好きでいられる。彼も私を好きでいてくれる。
 どこからかその確信が湧いてきて、少し無理していた顔面から余計な力が抜けていったのが解った。


 ようやく麻美が笑ってくれた。
 先程から笑顔を作ってはいたが、どうにも無理をしているらしく、どこかぎこちなかった。
 それが今、いつもの愛らしく優しい笑顔に変わった。
 彼女は手の中の透明な石を握り締め、一点の曇りもない瞳でこちらを見上げている。
「ショウちゃんが頑張っている間、私も頑張るね。せっかくお母さんが認めてくれたんだもん」
 両握り拳を胸の前で軽く上下させ、気合を顕にした。
「不安なんて感じないくらい、うんと頑張る。でもやっぱり寂しくなると思うから、その時は名前を呼ぶね」
 きっと、風が声を届けてくれるから。
 そう言って彼女はまた笑った。
 風が吹きぬけ、髪の毛を撫ぜる。

「麻美」
 名前を呼ぶと、彼女は嬉しそうに首を傾げて俺と目を合わせた。
「忙しい時期が過ぎたら、家へ遊びにおいでよ。見せたいものが沢山あるんだ」
 美しい景色、古い玩具屋、美味しい甘味処、楽しい人達。
 数え切れないほど、見せたいもの、伝えたい事がある。
「でも、場所も行き方も解らないよ」
「お母さんが知ってるはずだ」
 いざとなれば迎えに来れば良い話である。
 行き方を手紙か何かで教えても良い。

「あ、そうだ」
 そこまで考えて、突然思い出した。
 ズボンのポケットを探って、指先に触れた薄い感触を摘んで引っ張り出す。
「これ、俺の住所。手紙は普通にポストに投函すれば届くから」
 残念ながら、俺は携帯電話などという便利機器は持っていない。
 家の電話もあるが、俺自身、日昼家にいる事が少なくなるので、教えてもあまり意味がないだろう。
 手紙なら、家に届きさえすればいつでも読める。書く時も互いの都合の良い時に書けば良い。
 麻美は住所が書かれた紙を片手に、目を瞬かせた。
「手紙、書いて良いの?」
「勿論だよ。俺も書かせてもらう」
「私の住所……」
「知ってる。調べたから」
 そう軽く返すと、麻美は目を丸くした。それから口元に手をやって、ふっと静かに噴出した。
「用意周到なんだから」
 俺も一緒になって笑って、落ち着いた時。
 その瞬間を見計らったかのように、目も開けられないような強い風が吹き抜けた。
 轟音に混じって、兄ちゃんの声が聞こえてきた。

 まずい、怒ってる。
 はっとして顔を覆っていた腕を避けて空を見ると、小さめの雲が頭上まで迫っている所だった。
 焦る気持ちと、まだ発ちたくない気持ちの狭間で揺れながら、もう一度麻美の顔を見た。
 これで最後のつもりだ。
 これからしばらくの間、彼女の顔を見ることもできないだろう。
 刻み付けるように、気が済むまで見詰めて、それでもまだ名残惜しい。
 しかし彼女は、じっと見詰め続けている俺の目を見て可笑しそうに笑った。
「半年くらいじゃ、顔は変わったりしないよ」
 そして微笑みを湛えたまま、彼女は一歩俺に歩み寄り、手を取った。
「元気でね。あまり無茶をしないで」
「麻美も、元気で」
 手を握り合い、互いの瞳を覗き込む。
 そして、どちらともなく顔を近付け、唇に口付けた。
 優しい感触に、思わず涙腺が緩みそうになる。

「……じゃあ」
 いい加減行かないと、兄ちゃんにボコられる。
 名残惜しさに後ろ髪を引かれながら、やっとの思いで手を離し、地面を蹴った。
 風の力を借りて浮かび上がり、徐々に麻美から遠ざかっていく。
「気を付けてね!」
 一生懸命手を振る彼女の笑顔につられ、俺の頬も自然と綻んでいくのが解る。
「またね」
 手を振り返し、ニッと歯を見せる。
 風の流れが強くなり、強くなったかと思うとあっという間に空気の渦が俺を取り囲んだ。
 砂埃の合間から見えた麻美の笑顔を最後に、俺はその場から立ち去った。

「遅い」
「ごめんなさい」
 雲上へ戻ると、兄ちゃんが恐ろしい形相――無表情だが、纏っている雰囲気が全然違う。滅茶苦茶恐い。――で仁王立ちしていた。
 腕は組んでいるが、腰に刀。下手に口答えすれば命はないものと思って良いらしい。
 内心蒼くなって頭を下げていたが、降り注いでいた痛いほどの視線が突然和らいだ。
 不思議に思って顔を上げると、丁度兄ちゃんが溜息を吐いた所だった。
「まったくお前という奴は……解ってはいたが、面倒臭すぎる」
「す、すみません」
「今から発つと、家に着くのは夕方だな」
「は?」
 何故だ。ここからだと、どんなに時間がかかっても昼過ぎには到着できるはず。
 しかし、兄ちゃんは俺の疑問に疑問で返してきた。

「何だその顔は」
「だって兄ちゃん、夕方って」
「赤城に寄って行くなら、昼過ぎに帰るのは無理だろう」
 馬鹿かお前は、と語尾に付きそうだった。
 聞いてないよと返しそうになったが、そこはぐっと堪えて兄ちゃんの横顔を見る。
「ありがとう、兄ちゃん」
「これも仕事の内だ」
 相変わらずの仏頂面が、どことなく優しく見えた。


 風が止むと、広場に一人切りになっていた。
 あんなに強い風だったのに、私の手足には砂粒ひとつ付いていない。

 まるで全てが幻だったかのように、彼等は消え去った。
 足跡ひとつ残さず、本当に、跡形もなく。
 呆然と立ち尽くす私の耳に、公園に遊びに来た子供達の笑い声が飛び込んできて、ようやく我に返った。
 そうだ、正悟君がいなくなったのだから、公園を封鎖する必要もないのだ。
 思うように動かない右手を、やっとの思いで開くと、透明に輝く水晶が現れた。
 確かな重みと共に、存在を主張している。
 夢のような出来事であったけれど、現実に起こった事なのだ。

 唇に指先で触れ、儚い感触を思い出す。
 確かに、現実なのだ。

 手の中に握り締めた水晶。ポケットの中には正悟君の住所が書かれたメモ用紙。……現実を証明する、数少ない証拠だ。
 この短い期間を、夢にしないためにはどうしたら良いだろう。
 ポケットの中から取り出したメモ用紙を見詰め、力強く頷いた。
 考える時間は、端から不要だ。
「手紙書かなきゃ」
 今日これから街に出て、可愛い便箋と切手を買って来よう。
 そして、毎日毎日、正悟君に報告する事をひとつひとつ蓄積していかなければ。

 考え出すと止まらない。
 わくわくして、楽しくなってくる。
 無意識に笑顔がこぼれ、擦れ違った小学生の集団が不思議そうに眺めて行ったが、少しも抑えることができなかった。
 照れ隠しに駆け出した背中を、風が押した。

 恋を運ぶ風は、次は誰の元へ向かうのだろうか。



 完


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